徳川家康はいつから「天下を取ろう」と考えていたのか? 秀吉が死ぬずっと前から、そう考えていたか? | えいいちのはなしANNEX

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家康は、いつの時点で「天下を取ろう」と考えたのか? 秀吉が死ぬ、前か、後か?

これは、白か黒かで言えるものではないでしょうね。
家康が「どいうつもりだったか」は、本人の頭の中を見てみないと分からないわけで。
結果として天下を奪ったんだから、最初からそのつもりに決まってるじゃん、というふうに人は考えがちです。
実際、歴史小説などは、そういしないと面白くないから、家康は早いうちから豊臣の天下を覆そうと虎視眈々と布石を売っていた、というふうに描くのが定番となっています。


しかしね、ヒトの行動なんて、意味づけしようと思えば、どうとでもつくんですよ、実のところ。
「家康は、オギャーと生まれたときから、天下を狙っていた」とすらいえます。
織田の人質時代には、信長を「コイツについていくのが天下の早道だ」と思って可愛い子ぶって接近した、今川の人質時代には義元を踏み台にしてやろうと忠実な武将のフリをして信頼を得た、その今川から独立するために桶狭間のときはわざと手を抜いて織田に勝たせた、信長の同盟者のときは、警戒されないように、三方が原のように、ときどきわざとこっぴどく負けて見せて同情を買った、本能寺の変の黒幕はもちろん家康で、目の上のコブの信長を消すため光秀と共謀して、のちにあっさり光秀を裏切って消した・・・。


こういう思考方法を「逆算の理論」といいます。結果をもとにすべての事件、行動に理屈をつけていく。家康は最終勝利者になったのだから、その人生の全ての行動は、生まれたときから死ぬまで、「天下を取る」という目的のために一寸のムダもなく理由づけられるはずだ、理由づけられなければならない、という考え方です。
これって、けっこう危うい考え方ですよ。歴史を語るときに陥りやすい罠です。講談、小説を書くときは別にそれでいいですけど、現実の人間ってそういうもんではないでしょう。


もし晩年の家康にインタビューして「どの時点から天下を狙ってましたか」と聞いても、「さあ・・・いつからだったかのう、だんだんその気になってきた、としか言えないのう」というと思います。

秀吉の在世中に「天下」が頭の片隅にもなかった、なんてことはないでしょうが、「何がなんでも天下」というんでもなかっただろう、というのが妥当なとこだと思いますよ。

世の中の流れがうまく流れてくればいいな、そんときのためにいいようにしとこう、という行動を、そんときそんときで選んでいた、というくらいじゃないですかね。

 

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