織田信長はなぜ若い頃「上総介」を自称していたのか? という話を「国司、受領とは何か」から順番に語 | えいいちのはなしANNEX

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 かみ、すけ、じょう、さかん、これが律令の四等官。どの役所にも、この四ランクの役人がいます。国司の場合は、これに「守」「介」「掾」「目」という漢字をあてます(役所の種類によって、あてる漢字が違います)。
各国の警察と徴税を管轄するのが「国衙」という役所(県庁のようなもの)であり、国衙がある町を「国府」、国衙で働く役人のうち、京都から派遣された管理職(キャリア)を「国司」といいます。

つまり、(最低)四人がいます(国によっては大掾と少掾がいたりもする)。この四人とも「国司」で間違いありません。

なお、上総、常陸、上野の関東の三カ国だけは、親王任国といって、「守」は天皇の息子が名誉職で名前だけ就任する決まりでした。なので「上総介」は上総の国司のトップということになります。

ちなみに現地に赴任している者のなかで最上位の者を「受領」といい、この受領のことだけを国司と呼ぶこともあります。

そして、時代が下がると、地方の武士が「国司」の肩書きを、実務もないのに名前だけもらったり、あるいは勝手き自称したりするようになります。これを「受領名」と言ったりすることもあります。

さて、これを踏まえて、織田にぶながはなんで若い頃、「織田上総介 」と名乗っていたのか、という話をします。
信長はのちに実際の領地である尾張守、父と同じ弾正忠(家の通称)などと名乗りますが、この最初に名乗った「上総介」ってのは、自称なのはいいとしても、いったいどこから持ってきたのか、という話です。

そもそも桓武平氏の祖である高望王は、平姓を賜った直後、上総介に任官し、家族ごと任地に下向します。これが「坂東平氏」のはじまりです。
長男の国香・次男の良兼、また五男良文の孫で、「平忠常の乱」で教科書にも載っている忠常も、上総介を名乗りました。つまり、坂東平氏にとって「上総介」は、一族の総領格であるという意味合いの由緒ある肩書きだった、といえるようです。


源頼朝 の挙兵の際、けっこう遅れて参陣してきたのにやたら態度がデカく、のちに梶原景時 に誅殺された「上総介広常」という人物がいます。本名は平広常ですが、北条とか三浦とかいった「苗字」を名乗っていないんですね。だから便宜上「上総介氏」とか「上総氏」とか言われることがありますが、要は「オレはこのあたりの平氏の棟梁なのだから、苗字を名乗る必要はない、源頼朝が源氏の棟梁だというなら、同格だ」くらいのプライドを持っていた、ってことだと思います。


通称上総氏が滅ぼされたのち、上総介の肩書きは足利一門の吉良氏が名乗り、そのまた分家の今川氏に代々受け継がれて戦国時代に至るわけです。なので、信長とのちに桶狭間 で対決する今川義元 こそ正しい「上総介」だったわけです。もっとも、普通は「今川治部大輔」と呼ばれ、こっちがメインの肩書きのようで、上総介は「ついで」です。
信長が(成り行きで)平氏を名乗った 際、「源氏である今川が、平氏にとって由緒ある上総介を(ついでのように)名乗っているのは、筋違いである」的な対抗心を燃やしたのではないか、と思われます。


最初「上総守」と名乗ってしまったのは、ちょっとした勘違いかも知れません。「親王任国」ということを知らなかったのかもしれませんし、「介より守が偉いんだからいいじゃん」と若毛の至りで思い込んだのかも知れません。
しかし、「平氏の第一人者」を標榜するなら、高望王と同じ「上総介」でないと意味がないわけですから、あとで勝手に修正した、というところではないかと想像します。

 

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