家康はどうやって、秀吉の嫌がらせ関東移封から復活したのか? | えいいちのはなしANNEX

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秀吉は、家康への嫌がらせとして、加増と称して本領を取り上げ、関東に移した。ていうような話を昨日も書きましたが。
家康は、そこから力をつけて、関ヶ原に勝って天下を取るわけですから、「秀吉の嫌がらせは大失敗だった」ということになります。
んが。
今日はちょっと違う話をします。
江戸が辺鄙な田舎街だった、みたいに言うのは、誇張しすぎです。
江戸は家康が来る前も、それなりに開けた商業都市でした。
江戸城がある場所は山の手台地の上であり、眼下まで海が迫った、けっこう城としては理想的な立地です。
但し、台地の下はわりと低湿地が広がっていたことは確かでしょう。今の京浜東北線の線路の東側ですね。ここを市街地をするためには、徹底的に土地改良する必要があった。
そこで台地を崩した土砂で湿地と海をがんがん埋め立てて、どんどん土地を作っていった。このエネルギーは確かにすごいです。
しかし、なんといっても、江戸を栄えさせた根本は「利根川の付け替え工事」です。江戸湾に流れこんでいた利根川を、霞ヶ浦から銚子のほうに人工河川を掘って流れを変え、江戸の洪水をなくす、広大な湿地を有効な農地に変換する、北から物資を運ぶ廻船が房総半島の先の難所を回らなくてすむよう、銚子から江戸まで河川による水路をつくる、といった一石三丁の効果があった大工事です(もちろん家康は手をつけただけで、完成するのはずっとあとですが)。これだけの「広域都市計画」を実行した家康は、やはりすごいです。たしいたもの、といえます。

秀吉は、決して意地悪で家康を僻地に追いやったわけではなく、こうした大事業を実行する能力が家康にはある、と見込んでこの地を任せた、といえるのではないかと思っています。いわば「いちばん手ごわい敵に、いちばん強い部隊を当てた」ということです。
関ヶ原は生前の秀吉に予測できるものではありませんし、家康も(関ヶ原の時点では)豊臣を滅ぼそうとは考えていなかったと私は思います。「関東の発展は、秀吉の想定外」というのは、ちょっと違うのではないかな、と思います。