豊臣政権が長続きしなかったのは、カリスマ経営の発想から脱却できなかったから | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

豊臣家の台所に、豊臣家の家来以外の者を入れてはいけません。
外様大名は、「お客様」であり、所詮は他人です、ウラを見せてはいけません。
ご一族のお坊ちゃま方も、バックヤードに踏み込んできてあれこれ口を出して貰っては困ります。
ですから、政権を作ったら「実務は手飼いの家来たちでけで運営する、一族や、外様の大大名は、せいぜい名目的な顧問官くらいの役割にして、実務には関わらせない」という体制を、できれば初代のカリスマが生きているうちに、あるいは「かなり優秀な二代目」までのあいだに、作り上げなければなりません。
これができるかできないかで、政権が長持ちするかどうかが、おおよそ決まります。
残念ながらこれに失敗したのが豊臣政権であり、成功したのが徳川政権です。秀吉は統一事業に時間がかかったため、とにかく天下統一のために手早く取り込んだ外様の大大名たちの力に頼らざるを得ず、「お客様扱い」することができなかったことです。

石田三成のような譜代大名が合議制で運営する政府がよい、というのは、家康が見習うまでもなく、普通のセオリーです。
しかし、秀吉はそれを徹底できなかった。なんでか。時間がなかった、外様が力を持ちすぎた状態だった、ということに加えて、秀吉には「カリスマ経営者が組織を引っ張っていく」という組織以外のものを発想できなかったからではないか、と考えます。ひたすら信長のやり方を見習ってきた秀吉には、「自分の後継者が、家来たちの合議制の御神輿になる、お人形に徹する」という政権を想像できなかったんです。だから、自分のカリスマを受け継ぐ経営者として、ナンバーツーの家康を指名することしか思いつかなかったのではないか。
秀吉が、家康を警戒して排除するチャンスを狙っていたが適わなかった、だから三成らに「家康には気をつけろ」と言い残して死んだ、という説に、私は与しません。秀吉は「家康に、自分の代理カリスマをやってもらう」という発想しかできなかった。自分の死を契機に経営組織をドラスティックに改革して「番頭たちの合議制、若旦那はお人形」という仕組みに組織変革する、ということができなかったのです。
徳川が長続きしたのは、「よくできた二代目」秀忠が、自分が飾り物になってでも譜代の家臣が合議制で運営していく幕府をがっちり作りあげることに成功したからです。秀忠こそ、ほんものです。