豊臣家の人間のはずの北政所や小早川秀秋が、なぜ徳川についたのか…って聞くの? | えいいちのはなしANNEX

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秀吉の正室である寧々(北政所)が、関ヶ原のときになぜ豊臣でなく徳川の味方についたんだ、不思議だ不思議だ、って言うひと、いまだにいますね。
困ったな。
あのね、それはね、関ヶ原は、豊臣対徳川ではないからですよ。
映画「関ヶ原」は司馬遼太郎の小説の映画化ですから、「武断派=尾張派=北政所派」対「文治派=近江派=淀殿派」の対立に徳川家康が付け込んで、武断派を操る形で「関ヶ原の戦い」の構図を作った、という、まあ大昔から普通に語られているスタンダードな図式をそのまま描いています。今では批判も文句もイロイロ出ていますが、東軍、西軍の顔ぶれを見る限り、この構図に大きな誤りはありませんので、これを基本に話を進めます。
基本として確認しておくべきことは、「関ヶ原で戦ったすべての大名は、家康を含めて、一人残らず豊臣の家来である」ということです。つまりこれは徳川対豊臣ではなく、豊臣家の内部分裂であって、「家康の味方をすることは豊臣家を滅ぼすことだ」なんて、このときは誰も考えてはいなかった、ということです。
最近では「北政所は実は西軍支持だった」なんて新説?を言い立てる人もいます。これ言いたがる人は、よっぽど家康が嫌いなをだなあ、って思いますけど。
ただ、これだけは絶対に確かなのは、「加藤清正と福島正則が東軍にいる以上、北政所が西軍びいきだったということは絶対にありえない」ということです。清正と正則が、実の母親以上に敬愛する北政所の意向に反することは金輪際ない、これはもう、絶対です。
ということで、「北政所は、家康こそが秀頼を守り立てて政権を取るのに相応しい人物であると信じていたから」というのが、まず動かない回答です。
そうすっと、家康は結局、豊臣を滅ぼしたじゃないか、といわれますが。北政所が家康に騙されていたのか、それとも秀頼や淀殿の「このあとの行い」が悪かったのか、それは、ここでは論じません。
次に、小早川秀秋ですが。
秀秋は北政所・おねの甥です。秀吉や秀頼とは血縁はありません。
彼は石田三成に巻き込まれて、のこのこと関ヶ原までついて行ってしまっただけで、関ヶ原では布陣前から東軍として動いています。したがって彼は「裏切り」だの「寝返り」だのはしていません。
正室の北政所を大阪城から追い出して、豊臣の主のように振舞っている淀殿や、その取り巻きたち(石田三成たち)に、秀秋は敵意を抱きこそすれ、命令に服する謂れなどないと思っています。だから秀秋が家康に付くのは当然です。
東軍についている「豊臣恩顧」の尾張系の武将たちは、皆、北政所にシンパシーをもち、秀頼はともかく淀殿や、その威光を笠に着た石田三成には、おおいに反感を持っています。だからこそ家康についているのです。そして秀秋はあきらかに「こっち側」の人間であり、石田の味方をするはずは、最初っからないんです。そんなことぐらい、誰だって分かってます。

北政所が東軍の「黒幕」として積極的に動いたかどうかは何とも言えませんが、たとえ何ていなくても、いまの北政所の境遇を忖度すれば、加藤、福島、小早川が石田三成の味方になることは絶対にありえません。