「親藩は幕政に関われない」というけど、松平という名字の老中がいっぱいいるのはなぜ? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

松平といっても、いろいろだからですうーん


1、家康の遠い親戚である、三河時代から続く十八松平と呼ばれる家。これは代々「松平宗家→徳川家の家来」ですから、譜代大名の扱いにやり

2、越前・会津などの「家門」、御三家の分家「連枝」は、徳川ではなく「松平」を名乗る。これはまごうかたなき家康の男系子孫だから、親藩。何かのはずみで御三家の当主を継ぎ、なにかのはずみで将軍になる可能性がある。そういう男子は幕政には関われない。お家騒動のモトになるからぶー

3、外様の大大名が、将軍の親戚扱いをしてやる、ということで「松平」と名乗ることを許される。たとえば江戸の地図に「松平大膳太夫」の屋敷と書いてあったら、それは長州の毛利家のこと。国持大名はたいてい「松平」を貰う。普段はあんまり名乗らないウシシ

松平伊豆守も、松平定信も、カテゴリーとしては「1」の松平です。譜代ですから、老中にもなれますゲラゲラ

チョイ待ち、松平定信って吉宗の孫でしょ、親藩じゃないの? 

違いますイヒ

彼は御三卿田安家の次男坊で、譜代大名である白河松平家に養子になります。この時点で将軍位継承権は消滅して、彼は「家来」のカテゴリーになったのですほっこり

その件を周旋した田沼意次を恨んでたとも言われますが、彼は家来の家に養子に行ったから老中になれて幕府を仕切る立場になれたので、田安家の部屋住みのままなら何の役職にもつけず一生飼い殺しだったはずで、恨む筋合いはないですムキーッ

ついでにいうと、四代家綱のときの大老・保科正之も、将軍の息子ですが、「保科家」に養子に行っていて将軍継承権がないから、大老になれたのです(でも彼の子孫は松平を名乗り親藩扱いになり、幕府の役にはつかなくなります)zzz

老中も大老も、要は「徳川の家老」であり、これは家来の仕事です。
幕府の政治は家来(譜代)がやります。ご一族(親藩)やお客様(外様)は徳川家の台所には入れません。

但し、このタテマエは、幕末になって黒船が来たりして国が危機になると、だんだん崩れていき、親藩も外様もオールジャパンで団結しないと国が守れないぞ、となってきます。幕末の会津藩主、松平容保(もちろん親藩)が「京都守護職」に任ぜられたりするのも、この流れです。