大隈重信は、どうして「立憲政体」を目指したのか、って話を、おもいきり俗っぽく説明する。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 大隈重信は、薩長土肥の「肥前」佐賀藩の出身、つまり一応、端っこのほうとはいえ藩閥の出身です。経済閣僚としてばりばり仕事をし、「円」という通貨制度を創設するのに尽力しました。

 しかし大久保ら明治藩閥政府の主流派と対立して失脚、下野します。そこで政党をつくって在野で政治活動を続けた大隈が、後継者を育成しようとして設立したのが、のちの早稲田大学です(そのへんが、同じ九州でも中津藩という、倒幕に手柄があるわけでない藩の出身で、はじめから政治家ではなく教育者である福沢諭吉との差です)。


 ちなみに、同じころに似たような事情で政府から追い出されたのが、土佐出身の板垣退助です。

 「薩長土肥」といいつつ、薩摩、長州の中心にいた大立者たちに比べて、土佐や佐賀の出身者はどうしても立場が弱く、意見が通らない。明治政府は大久保や木戸のような薩長出身者が中枢にいて、それが密室で決めた方針で運営されていました。

 これは、大隈にとっては、ものすごく悔しい状況であったに違いありません。


 戊辰戦争で手柄があった「元勲」が、その手柄を根拠に、強引に独断で物事を進めていく、いつまでもそういうんじゃあ、日本はよくならない。

 日本がどうあるべきかというのを明文化した「憲法」を作って皆に示し、それにしたがって皆が論議をして国の進む方向を決めていく、そういう仕組みをつくんないと、日本はよくならない、ってか、「オレたちが浮かばれない」んです。

 

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