大隈重信は、薩長土肥の「肥前」佐賀藩の出身、つまり一応、端っこのほうとはいえ藩閥の出身です。経済閣僚としてばりばり仕事をし、「円」という通貨制度を創設するのに尽力しました。
しかし大久保ら明治藩閥政府の主流派と対立して失脚、下野します。そこで政党をつくって在野で政治活動を続けた大隈が、後継者を育成しようとして設立したのが、のちの早稲田大学です(そのへんが、同じ九州でも中津藩という、倒幕に手柄があるわけでない藩の出身で、はじめから政治家ではなく教育者である福沢諭吉との差です)。
ちなみに、同じころに似たような事情で政府から追い出されたのが、土佐出身の板垣退助です。
「薩長土肥」といいつつ、薩摩、長州の中心にいた大立者たちに比べて、土佐や佐賀の出身者はどうしても立場が弱く、意見が通らない。明治政府は大久保や木戸のような薩長出身者が中枢にいて、それが密室で決めた方針で運営されていました。
これは、大隈にとっては、ものすごく悔しい状況であったに違いありません。
戊辰戦争で手柄があった「元勲」が、その手柄を根拠に、強引に独断で物事を進めていく、いつまでもそういうんじゃあ、日本はよくならない。
日本がどうあるべきかというのを明文化した「憲法」を作って皆に示し、それにしたがって皆が論議をして国の進む方向を決めていく、そういう仕組みをつくんないと、日本はよくならない、ってか、「オレたちが浮かばれない」んです。