女性天皇は、なぜ飛鳥・奈良時代と、飛んで江戸時代にしか存在しないのか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

  女性の天皇は、日本史上、8人(10代)います。

 飛鳥・奈良時代に、推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正、孝謙(称徳)の6人(8代)。

 江戸時代に、明正、後桜町の2人。

 このあいだの平安時代kから安土桃山時代までは、女性の天皇はひとりもいません。

 なんでか、って話をします。

 古代の大王は実際に兵を率いて戦う存在でしたので、「健康で有能な成年男子であることが常識」だったのです。子供の大王というのは話になりませんでした。なので、飛鳥時代の途中までは大王位を兄弟が順繰りに継いで行くケースが多かったのです。

 飛鳥後期から奈良時代にかけて、天皇には「権力」より「権威」のほうが必要とされる時代になると、一族の間で皇位を巡って争うことを避けるため、「天皇の位は、親から子、孫へと一直線に継承されるべきだ」となってきます。しかし、天皇が早死にして子供がまだ幼い、という事態はしょっちゅう起こります。ところが「天皇は成年男子であるべき」という常識はまだ生き残っていたので、幼児は天皇にできません。そこで、母や叔母などが臨時の中継ぎとして天皇になる、というケースが多くあったのです。

 女帝は「(その時点で)夫がいない女性」に限定されます(当然ですね)。つまり、前天皇の皇后(または皇太子の正妃)か、または生涯独身か、このどちらかと決まっています。未亡人で、子供がいて、その子供に皇位を継がせたいからがんばる、という人ならまだいいですけど、なんかの事情で独身で天皇とされると、その女性は一生結婚できない、ということになります。お国のためとはいえ、不自然で無理な存在なんです。


 だから「称徳天皇が、道鏡を寵愛して云々」なんてことも起こるわけで(私は、称徳と道教が男女の関係であるという話はまったくの嘘であると考えていますが、それにしても、潔癖症で理想家の独身女帝に皆が振り回された、というふうに皆が思ったのは否めません)。



 平安時代になると、天皇の「権力」はほぼなくなり、藤原氏が国を仕切るようになります。そうなるともう「天皇は幼児でもOK」というふうに、常識のほうが変わってきます。ならば、もはや中継ぎ女帝の必要はないわけです。だから、9世紀から16世紀には、女性を天皇にするという「無理」をする必要はなかったのです。


 それが、江戸時代に突然また「女帝」が復活したのには、「天皇家と徳川家の確執」があったから、といわれています。

 このとき生まれた「明正天皇」は、徳川秀忠の娘を母としています。言われるところでは、幕府による朝廷の圧迫に腹を立てていた後水尾天皇が、突然、七歳の娘に譲位してしまったのです。

 「ほら、家康のひ孫を天皇にしてやったぞ、文句あるか」ってわけですが、女性天皇は生涯独身が鉄の掟ですから、これで将来的に徳川家の血が天皇家に残ることはなくなったわけです。

 後水尾天皇にしてみれば「ざまあみろ」というところでしょうけど、七歳にして突然父親から「オマエは一生結婚させない」と言われちゃった明正天皇は、お気の毒としか言えないよなあ、と、少なくとも現代の感覚では思わずにはいられません。