中臣鎌足は、もうちょっと長生きしてたら「石田三成」のように関ヶ原で敗死していたでしょう。危ない! | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 中臣鎌足が天智天皇の側近ナンバーワンであった、と「日本書紀」には書いてありますが、その日本書紀を作ったのは息子の不比等ですので、「鎌足はホントにそんな大物だったのか」については、眉唾です。

その日本書紀でも、鎌足は「内臣」という秘書課長程度の役職であり、内大臣の位を貰ったのはやっと死に際、ということになっています(それも日本書紀を信じれば、で、本当のところは怪しい)。
 ということで、鎌足が「天智の後継者を決めるほどの、キングメーカー的な権力を持っていた」というふうに無邪気に信じることは、かなり無理です。
 現実の鎌足は、天智の腰巾着で「天智あっての鎌足」という程度の存在だったと思われますし、そうであれば天智路線(中央集権)を維持する大友皇子を全力でサポートする以外に、彼自信の生きる道はありません。
 天武は当時すでに、「強引な中央集権政策に嫌気がさしている豪族たち」に担がれた「政権内野党」的存在でしたから、天武が天下を取れば、天智の腰巾着・鎌足は真っ先に消される存在でしょう。

 ちょうど、天智が秀吉、天武が家康、鎌足は三成、大友が秀頼、みたいなもんですね。

 で、鎌足は生きていれば西軍を組織して関ヶ原ならぬ壬申の乱を起こして、敗れ去っていたでしょう(壬申の乱の決戦場は不破の関、すなわち関ヶ原です)。とすれば、鎌足はいいときに死にました。
 天武朝では中臣氏は冷や飯を食っており、不比等も最初は逼塞していたのですが、皇后(のちの持統)の威勢が増すにつれて引きたてられて登用され、「近江朝遺臣団のホープ」として中央集権政策の巻き返しに尽力し出世しました。

 天武朝の「豪族妥協政治」は、皇后(持統)の「近江朝復活政策」に乗っ取られた形で、その大立者こそ、藤原不比等なのです。


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