1、地方分権を徹底したこと
2、馬鹿でも将軍が務まるシステムを確立したこと
この2点だと考えます。
世の中の人がいう、「幕府があの手この手で、諸大名を貧乏にして、叛乱を起こさせないようにしたからだ」という説明とは、かなり異なると思いますが。
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幕藩体制というのは、幕府による全国強権支配の体制というように誤解している人が多いですが、実は「外様大名の政治には幕府は一切口出ししない」というのが基本方針の、究極の地方分権体制なんです。
自分で努力して豊かになるも、怠けて貧乏になるも、それぞれの大名次第。幕府は、諸藩の内政についてああせいこうせいとは言わない。ただし、「隣の領地を戦争で分捕る」という手段は絶対厳禁ですから、藩内で新田開発なり殖産興業なりを必死にやるしかない。だから、日本国全体が少しずつ豊かになる。それで日本は平和に保たれる。そういう社会です。
日本全体の整備については、基本は幕府がやるけど、諸大名にも賦役を課すこともある。将軍に従って戦争する代わりに城作りや道路工事、河川工事に人数を出せ、ということで、これは戦争するときと同じ、費用が自前というか「最初に貰っている石高に込み込み」というのは、これは封建制というものの常識で、何も理不尽なことではありません。
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信長や秀吉は、それはまあ熾烈な戦争で日本を統一した人間としては当然そうなりますが、強力な中央集権的な体制を志向していました。
すべての大名が、中央の作った統一基準で民衆を統治する。成果は厳しく査定され、ダメなら、即交代。こうした体制は、土地に命を駆けて生きている「一所懸命」を基本原理とする武士にとって、かなりストレスの溜まるものだったのです。この不満が秀吉の死とともに爆発して、「オレの領地はオレの好きに治める、そういう体制を認めてくれる人が日本のトップに立って欲しい」と皆が望んだから、徳川は関ヶ原で勝てたのです。
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信長、秀吉のような「中央集権的」なシステムで一番重要なのは、中央権力に対する信頼、つまり「トップのカリスマ性」です。だから、豊臣政権が秀吉の死とともに雲散霧消してしまうのは、当然だったんです。
家康。秀忠は、これを見て「こんなシステムは無理があり、長続きしない」というのが分かったはずです。なので、自分の子孫である将軍から「権限」を大幅に剥奪し、老中だ奉行だという官僚組織が何でもやり、将軍が何もしなくても幕府は回っていく、というシステムをつくりあげて死んでいったんです。
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だから、江戸幕府の基本方針はすべて「先例重視、神君家康公のお決めになったとおりに」です。新しくヘンなことはやんない(変わったことをはじめたヤツは、皆で潰す)。これが、幕府が「長続きした秘訣」であり、同時に「滅びた理由」でもあります。
百年、二百年すれば当然、社会とズレて、ガタもきます。そのときは静かに滅亡するしかありません。どんな長生きさんにも寿命はあります。