関白秀次にとって、秀頼が生まれてしまったことが残念、といわれます。それはまあ、事実です。
では、もし秀頼が生まれず、秀次は秀吉に粛清されることもなく関白を続けていたら、秀吉の死後、どうなったか。
私は、それもこれも、関白秀次がどれくらいちゃんとした政治ができたか、それとも結局は太閤秀吉の陰でお飾りで終わったか、だと考えます。
実際の歴史でも、関が原 の戦いが起こった根本原因は、豊臣秀吉の晩年の政治が破綻していて、人心が「豊臣政権」から離れていたことであると考えます。だから、「従来どおりのポリシーを堅持しよう」とする石田三成と、「従来の政策を大きく見直して、チェンジしよう」という徳川家康との対立になり、家康が大方の指示を集めて勝った、というふうに考えるべきです。「天下」は豊臣家の私有財産ではなく、日本国を上手く治めるための舵取りをすることです。仮に秀次が生き延びていたとしても、秀吉の「失政」を止められなければ、同じことです。
「失政」とは何かといえば、最大のものはやはり朝鮮出兵の大失敗です。当時の社会状況(国内統一によるフロンティアの喪失、膨張エネルギーも持って行き場が他になかった)というのはありますが、やはり過程と結果において大失敗でした。朝鮮に渡って奮戦した者ほど悲惨な被害を負い、その上、働きをまったく正当に評価されず、頑張ったにもかかわらず罰を食らった者は不満を募らせました。この不満を一身に浴びたのが石田三成で、こんな「間違った今の豊臣家」を正してくれると期待されたのが徳川家康です。
![えいいちのはなしANNEX](https://stat.ameba.jp/user_images/20120315/05/eiichi-k/ea/2a/j/t02200293_0519069211852275878.jpg?caw=800)
![えいいちのはなしANNEX](https://stat.ameba.jp/user_images/20120319/07/eiichi-k/9c/0d/j/t02200293_0519069211860484964.jpg?caw=800)
ですから、ポイントは秀次が、晩年の秀吉の「暴走」をどこまで止められたか、端的に言えば朝鮮出兵を止められたかどうか、に全てがかかっている、といっていいと私は思います。
「朝鮮出兵はおやめください、これ以上領地は増えないということを大名たちに納得してもらい、リストラ政策に転換しましょう」ということを、秀吉に向かって主張して、それを通すことができたか。
これは、イケイケで天下統一した秀吉の「今までの成功体験」を封印というか否定するってことですから、秀吉が素直に従うとは思えません。そこで秀次が黙るか、それもと言うことを聞かないならクデターでも何でもして秀吉から実権を奪うか。どちらかです。
そこで黙ったのなら、結局は豊臣家は政権から滑り落ち、徳川が天下を取るでしょう。同じことです。おそらく秀次は(三成と淀殿ほど傲慢でないので)スンナリ家康に政権を渡し、小大名として生きながらえるでしょう。
クーデターを起こせるほどの器量なら、豊臣の天下は続くかも知れません。その場合は家康は豊臣家の重臣として秀次を支えつつ、政権内で発言力を増していく方針で行くかも知れません。いずれ、秀吉と織田信雄の関係のように逆転するかも知れませんが。それはまた先の話です。
秀次の器量しだいです。生き残れた、とすればね。