豊臣秀次が関白を続けていたら、豊臣家は生き残れたか? 家康はどう出たか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 私はいつまで豊臣秀次 のことを気にしているんだろうか。と不思議ではありますが。
 関白秀次にとって、秀頼が生まれてしまったことが残念、といわれます。それはまあ、事実です。
 では、もし秀頼が生まれず、秀次は秀吉に粛清されることもなく関白を続けていたら、秀吉の死後、どうなったか。

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 私は、それもこれも、関白秀次がどれくらいちゃんとした政治ができたか、それとも結局は太閤秀吉の陰でお飾りで終わったか、だと考えます。
 実際の歴史でも、関が原 の戦いが起こった根本原因は、豊臣秀吉の晩年の政治が破綻していて、人心が「豊臣政権」から離れていたことであると考えます。だから、「従来どおりのポリシーを堅持しよう」とする石田三成と、「従来の政策を大きく見直して、チェンジしよう」という徳川家康との対立になり、家康が大方の指示を集めて勝った、というふうに考えるべきです。「天下」は豊臣家の私有財産ではなく、日本国を上手く治めるための舵取りをすることです。仮に秀次が生き延びていたとしても、秀吉の「失政」を止められなければ、同じことです。
 「失政」とは何かといえば、最大のものはやはり朝鮮出兵の大失敗です。当時の社会状況(国内統一によるフロンティアの喪失、膨張エネルギーも持って行き場が他になかった)というのはありますが、やはり過程と結果において大失敗でした。朝鮮に渡って奮戦した者ほど悲惨な被害を負い、その上、働きをまったく正当に評価されず、頑張ったにもかかわらず罰を食らった者は不満を募らせました。この不満を一身に浴びたのが石田三成で、こんな「間違った今の豊臣家」を正してくれると期待されたのが徳川家康です。
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 ですから、ポイントは秀次が、晩年の秀吉の「暴走」をどこまで止められたか、端的に言えば朝鮮出兵を止められたかどうか、に全てがかかっている、といっていいと私は思います。
 「朝鮮出兵はおやめください、これ以上領地は増えないということを大名たちに納得してもらい、リストラ政策に転換しましょう」ということを、秀吉に向かって主張して、それを通すことができたか。
 これは、イケイケで天下統一した秀吉の「今までの成功体験」を封印というか否定するってことですから、秀吉が素直に従うとは思えません。そこで秀次が黙るか、それもと言うことを聞かないならクデターでも何でもして秀吉から実権を奪うか。どちらかです。
 そこで黙ったのなら、結局は豊臣家は政権から滑り落ち、徳川が天下を取るでしょう。同じことです。おそらく秀次は(三成と淀殿ほど傲慢でないので)スンナリ家康に政権を渡し、小大名として生きながらえるでしょう。
 クーデターを起こせるほどの器量なら、豊臣の天下は続くかも知れません。その場合は家康は豊臣家の重臣として秀次を支えつつ、政権内で発言力を増していく方針で行くかも知れません。いずれ、秀吉と織田信雄の関係のように逆転するかも知れませんが。それはまた先の話です。
 秀次の器量しだいです。生き残れた、とすればね。