室町幕府が、江戸幕府に比べて「弱体」だったのはなぜか。大河「平清盛」に学ばなかったからです | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 宇宙兄弟を見ていると(といってもまだ見てないけど)、「兄より弟のほうがデキがよいことが、ままある(よくある、または、たいていそうである)というのがわかります。

 でも、といってここからいきなり歴史の話ですが、日本でもどこでも、昔は「跡継ぎは長男」と決まっていろ時代が長かったのは事実です。どうしてか、というのが今日の話です。 
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 江戸幕府に比べて、室町幕府が総じて弱体だったのは、どうしてか。

 将軍の人材に恵まれなかったのか、というと、議論はありますが、徳川家に比べて、足利家の歴代将軍が遜色あったとはいえません。義満や義教などキャラが立った人物をけっこう輩出しています。

 でも、江戸時代(徳川家)に比べて、室町時代(足利家)が決定的に「甘かった」点があります。それは、何か。

  それは、「なにがなんでも長男が偉い」というルールの有無、です。

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 「応仁の乱」が起こったのは、いろんな理由がありますけど、表向きの最大の原因は「将軍家の相続争いに、有力守護大名の各家の相続争いが乗っかって来た」からです。足利将軍家も守護大名家も、「家督相続のルール」が曖昧だったからです。

 「実力あるものが家督を継ぐ」というのは、聞こえはいいですが、いちいち戦争しないと跡継ぎが決まらない、ということです。

 これを防ぐなら、「馬鹿でも子供でも嫡男(正妻の長男)が跡継ぎ」という鉄のルールを徹底しておくしかありません。 

 ちなみに、大河ドラマ「平清盛」で、源氏が平氏に対して遅れを取っているのは、ひとつにはこのせいです。源氏は代々、「実力主義」の名のもとに、内輪もめを繰り返してきたからです。

 先々週も、為義(小日向)は、長男の義朝(玉木)が気に入らないからといって、弟の義賢に家宝をやってしまいます。こういうことをしてはいけません、といっても、為義が親分と頼む 藤原摂関家も同じことをしてますが。 こいつらが保元、平治の乱で没落してくのは当然だなあ、というのが見ていてもわかります。

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 話をもとに戻すと。家康は「吾妻鏡」が愛読書だったといいますから、「歴史に学ぶ」ことにかけては一流です。今だったら絶対に大河ドラマ見ながら「うむ、そうじゃ」とか言って膝を叩いてるに違いありません(たぶん)。

 その家康が「嫡男(正妻の長男)絶対!」というルールを定めたから、江戸幕府は安泰でした。もし、尊氏か義満にそれができていれば、室町幕府もなんとかなったかも知れませんが。

 もちろんその場合、馬鹿や子供が将軍になるわけですから、家来どもががっちり政治を握って将軍は飾り物、という仕組みを確立しなければいけません。江戸幕府というのは、実は、そういう組織です。

 つまり、将軍家は自ら飾り者になる、そうすることでしか「安泰な幕府」はありえなかったのです。足利家だって徳川家だって、優秀な政治家が次々と子孫に生まれてくる可能性なんて、極めて低いのですから。