ハムレットが「生か、死か」のと独白し、それに続いてオフィーリアに「尼寺に行け」云々と罵倒するシーンについて、あらためて考えて見ます。
このシーンは、ポローニアスとクローディアスがカーテンの陰に隠れて、ずっと話を聞いています。ハムレットは、この二人がいることに気付いていたのかどうか、というのが、いつも話題になります。
「気付いていた」説は、どっちかというとオフィーリアに同情的なヒトに多いんですよ。つまり、親の言いなりにハムレットを騙す片棒を担いで、こんなところで待ち構えていたオフィーリアに腹を立てたのだ、というわけです。それとともに、うしろの二人に「なるほどハムレットは狂気なのだ」ということを見せつけるために、わざとヒドイ暴言を吐いて見せたのだ、ということです。
あれはハムレットの本心じゃあないんだ、ほんとはまだオフィーリアを愛してるのに、敢えてイジメるところをオヤジ二人に見せてるんだ、というわけです。
実は若い頃は私もそう信じていました。だって、そうじゃなきゃ、あんまりじゃん。
しかし、シェイクスピア劇のお約束からいえば、残念ながらこれはハズレなのです。
たとえば「から騒ぎ」で、ドン・ペドロたち三人が、物陰に隠れたベネディックにワザと聞かせるように「ベアトリスはベネディックに惚れている」というニセ情報を喋ります(ドッキリカメラですな)。このとき、三人はヒソヒソ話で「ヨーシ、隠れているアイツにもっと聞かせてやろう」という台詞を随所に入れています。つまり観客に向かって「いま、我々は騙しちゅうですよ」「これはドッキリですよ」と説明しているのです。
いっぽう、たとえば「十二夜」で、マルボーリオにニセ手紙を摘ませて「オリヴィアは自分に惚れている」と勘違いさせるシーン、こちらでは「騙し三人組」のほうがうしろに隠れていて、前で喋っているマルヴォーリオはそれに全く気付いていません。うしろの三人は、繰り返し「いま、騙し中です」ということを観客に分からせる台詞を語ります。つまり「気付いているなら、ちゃんと気付いているぞと観客に言う」というのが、シェイクスピア劇のルールです。
ハムレットは、カーテンの陰に誰かいることに全く気付いていません。まったくオフィーリアと二人きりだと思いこんだ状態で、あの罵詈讒謗を吐き散らしているのです。つまり、これはハムレットの本音だ、ということです。
ついこのあいだまで恋人だったはずなのに、ナンだというのでしょうか、この男は。人生に絶望したんなら一人でかってに死ねばいいのに、女に当り散らすなんて、ひどいですね。これじゃあ、ただの「だめんず」です。
しかしこのシーン、「ハムレットは、オフィーリアが血の繋がった妹だと気付いてしまった、でもオフィーリアはまだそれを知らない」という状態なんだと思って見れば、かなり違って見えてくるはずです。以下次号