「道鏡」のはなし | えいいちのはなしANNEX

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 「Qさま」で、日本と世界の女王・女帝の絵(写真)が10人出てきて、名前を答える、というクイズがありました。いちばん難しい「10」の問題が、「奈良時代の女性天皇、道鏡を寵愛」というので、誰か(宮崎美子だっけ?)が「孝謙天皇」と書いて「正解! ファインプレー!」と賞賛されていました。
 違いますよ。断固言います。道鏡を寵愛したのは「称徳天皇」ですよ。
 ただし「孝謙天皇」と「称徳天皇」は同じ人です。二回天皇になった人は、そのつどオクリナが付くのです。「道鏡を寵愛」したのは後半(?)の治世です。時点の彼女は「称徳天皇」でしたから、こっちの名前が正解のはずです。まあ、そこまで言ったら歴史マニアのただのいちゃもんですけどね。それと、「寵愛」つうのは如何なものか。これは暗に「不適切な関係」があったような言い方になります。実際、いまだに日本人の多くがこの「俗説」を信じているのですが。
 この人の話は、こないだ書いた「天皇と皇帝はまったく違うものです」という話に関係してます。「例外的に、あえて皇帝と名乗った天皇がいる」というのが、この「称徳天皇」だからです。


 聖武天皇の子のうち、藤原氏の母が産んだ唯一の子だった彼女は、女性の身で皇位につけられます。「孝謙天皇」です。女性天皇は「元皇后の未亡人」か「生涯独身」のどちらかと決まっています。
 女帝は、自分を天皇にして権力を維持しようとする母(光明皇后)の実家・藤原一族のやり口に、ホトホト嫌気がさしていました。一旦は、母のお気に入り・藤原仲麻呂の庇護する親戚の男子に皇位を譲りますが(淳仁天皇)、母の死後、自分が再び天皇になり(このあとが称徳天皇)、仲麻呂を討伐して、滅ぼしてしまいます。
 しかし、女帝の宿命で夫も子供もいませんから、いずれまた、誰かを指名して皇位を譲らなければなりません。
 「どうせ皇位を譲るなら、次こそは藤原氏の操り人形になるしかないような軟弱な親戚ではなく、ホンモノの人格者に天皇になって欲しい」と考えるようになります。ある意味理想主義者、別の言い方をすれば潔癖症の女性だったのです。
 その称徳女帝が「ほんものの人格者である」と考えたのが道鏡です。実際、道鏡は高潔で学識深い人物だったようで、とはいえこれは昔のことですから推測するだけですが。少なくとも、女帝がそう信じていたのは確かです。
 つまり、道鏡のほうが皇位を狙っていたのではなく、称徳女帝が道鏡に「白羽の矢を立てた」のです。道鏡がそれを積極的に望んだわけではありません、おそらく。
 称徳はこのころ、自らを「天皇」ではなく「皇帝」と称することが多くなります。「天皇」はアマテラスの子孫しかなれませんが、中国流の「皇帝」であれば「徳さえあれば誰でもなれる」からです(概念的には、ですよ、実際は力ずくで中国全土を征服すれば皇帝になれるということですけど、それも「徳があったからだ」ということになるんです)。
 従って、「皇帝」と称するのは、血縁のないものに皇位を「禅譲」したいと考えている証拠なのです。天武天皇の子孫にあたる皇族男子はそれなりにたくさんいたものの、みんな藤原氏と血が繋がっており、藤原の息のかかっていない者はいません。それじゃあダメだ、藤原に操られずちゃんとした政治ができる人物に位を譲らなきゃダメだ、と称徳女帝は考えていたのです。
 結果として、藤原勢力の猛反発にあって道鏡は排除されます。あたかも道鏡は「ラスプーチンのような大悪党」であるかのように宣伝されてしまったのです。
 道鏡と称徳に男女関係があったかのように言うのは、もちろんデマです・・・って、これも大昔のことですから断言できることではありませんが、状況証拠からして可能性は極めて低いです。「下半身スキャンダル」をでっちあげるのは、こういうときの勝者の常套手段なのです。男が書き男が読む歴史では、「女は愚か」という話のほうが俗受けするからだ、とういうのは繰り返し述べたとおりです。