柳沢吉保は「近代資本主義社会」の建設を志していたのだ、という説はどうだろう | えいいちのはなしANNEX

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 もう二十年も前の話になりますが、松尾芭蕉忍者説をメインにした芝居をやろうという話になり、「裏歴史好き」なかまの友人(いわゆる水柿です)と一緒に、脚本の元になる話を考えたことがあります。

 伊賀出身の芭蕉が忍者だとすれば、公儀隠密ということになります。それが「奥の細道」の旅をした目的はなんだといえば、これはもう仙台伊達家の動向を探る(ひらたくいえば取り潰す口実を見つける粗探しをする)ことが目的、となるわけですが。そんじゃあ面白くない。ここはドーンと「伊達は本当に謀反の大陰謀を計画している、その裏には天下を狙う水戸光圀がいる」という壮大な話にしようじゃないか、ということになりました。
 奥州の兵を率いて攻め上り、江戸を火の海にしようと企む伊達綱村、それを裏で糸を引く水戸光圀。それを阻止すべく活躍する松尾芭蕉。いいぞいいぞ。・・・となると、芭蕉を派遣する幕府側のスパイマスターは、どう考えても柳沢吉保ということになります。そうなると、柳沢がコスイ悪党では話が成立しなくなります。
 水戸光圀を「実は巨悪」、普通きわめて評判の悪い柳沢吉保を「実は善玉」とするというプランはたいそう面白い。ここはどうあっても、柳沢は実は政治家として立派である、綱吉治世の悪政と言われていることは実は、当時は理解されないけど実は資本主義的に先進的な施策だった、というような理屈はつかないだろうか、と考えたわけです。
 どうだろうなあと色々考えてたすえ、綱吉時代の最大の悪政といわれる「勘定奉行・荻原重秀による貨幣改鋳(改悪)」に思い至ったのです。あれはひょっとして、世界で最初に「管理通貨体制」というものを思いついた快挙だったんじゃないか・・・・。
 ところで、この芝居には、伊達・光圀側として芭蕉の前に立ちはだかりアクションシーンをする忍者が要ります。ここまできたら敵も有名人にしたいところです。よし、「新井白石」だ。・・・なんで白石が忍者なんだ、と言われるでしょうが、学者としては有能なひとだったし、なんか儒教パワーで対抗できるんじゃないかと(笑)。
 調べてみると、史実の新井白石は、綱吉擁立の功労者ながらのちに殿中で刺し殺された大老・堀田正俊に仕えていたという前歴があるんですね。この暗殺は、堀田を煙たがった綱吉が裏で糸を引いたという説もあります(少なくとも、当時から多くの人がそう考えていました)。この事件のせいで新井白石は浪人になります。彼が綱吉政権を恨んでいたことは充分に考えられます。

 新井白石のやった政治というのは、実のところ、綱吉の政策を片端からひっくり返すだけだったとも言えます。中でも大きな功績とされるのが、荻原重秀のやった貨幣改鋳(改悪)を、もとの「正しい姿」に戻したことです。間違いなくこれは正義だと彼も当時の人々も信じていました。
 さて、これで世の中は良くなったのか。実は、通貨流通量が減ったおかげで、深刻なデフレ状態になります。
もちろん綱吉時代の公共事業(寺だの犬小屋だの)も全て廃止したおかげで景気がガクーッと落ち込みます。しかし儒教的考えでいけば商業は悪ですから、商業行為の勢いがなくなるというのは幕府的には「良いこと」だと考えられていたわけです。

 さて、こうしてみると、綱吉政権(柳沢、荻原ら)のやった仕事はどうだったのか、現代の目でよく考えると、違う側面が見えてくるのではないか、と・・・。

 荻原重秀は、貨幣改鋳を批判されたとき、「お上の極印さえ押してあれば、カワラケだって通貨になるんだ」という「暴論」を吐いたことで有名だそうです。貨幣の品位を落とすことは、差額を幕府がふんだくるための「悪質なインチキ」であると、当時は誰もが思っていました。
 しかし、世の中が平和になり、商人が問答無用で武士に切り殺されるようなことがなくなれば、人口は自然に増え、生産も増え、かつ人は豊かな生活を求める、贅沢になっていくのは自然です。商業行為の需要が増えれば、貨幣の流通量を増やさなければ経済が回りません。そこで荻原は「幕府の権威をバックに、代替貨幣を大量に通用させる」ということで景気拡大に貢献したのです。当然、インフレになります。でも、経済発展にインフレはつきものです。物価が下がり続けたら、誰もモノを買わなくなります。商人は貨幣を退蔵します。インフレだからこそ、消費、投資に向かうのです(こんなこと、いまさら私が語って恥かくまでもない話ですけど)。
 「管理通貨制度」の創出、とまで荻原が考えていたかどうか分かりませんが(そこまで理論的に考えてはいなかったでしょうが)、彼は日銀が紙幣の流通量を調整して経済を回す、というシステムの端緒を作った天才なのではないか。


 これ、私、当時はものすごく独創的なことをおもい思いついたような気がしてましたが、今調べると、ウィキペディアにも載ってるくらい「あたりまえ」のことのようです。
 そして、彼を見習って、銀の品位を落として大量の代替通貨を作ったのが田沼意次です(田沼についてはまた後日)。荻原も田沼も、失脚したあとはその政策がすべて悪とされてしまったため、「この金貨は金にあらず、銀貨は銀にあらず、政府が価値を保証した代用通貨にすぎない」という理屈を皆が忘れてしまったのです。そのため日本人は幕末に開国したときにひどい目にあいます(このへんは佐藤雅美先生著「大君の通貨」「主殿の税」の受け売りです)。 日本人は、欧米人も理解できないような先進的な経済システムを、江戸の早い時期から創出していたという話になるわけです。(つづく)