徳川綱吉は日本を「友愛社会」にしようと頑張っていたんです | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。


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 みかんといえば紀州、紀州といえば吉宗だ。というわけで、一週間まえの続きで、徳川綱吉と吉宗についての話をします。


 徳川将軍の名前にはたいてい「家」がつきます。でも、これが付かない将軍が、十五人中四人だけいます。「二代秀忠」「五代綱吉」「八代吉宗」「十五代慶喜」です。この四人の共通点は、「生まれた時は、将軍になるはずではなかった」ということです。基本的に、将軍の長男は「家」の字を付けられますが、次男以降は他の親藩や大大名と同じく、父または兄(元服時の将軍)の二字目をもらって頭につけます。「家光」の子は上から「家綱」「綱重」「綱吉」ですね。
 もっともこのシステムは家康というより家光が始めた、といえるかも知れません。家康の子供は上から「信康」「秀康」「秀忠」「忠吉」「信吉」「忠輝」…です。家康は改名前は元康(今川義元から一字貰った)、父は広忠、祖父は清康ですから、三河松平家は基本的には「康」または「忠」を使って、もう一字は当時の目上のひと(義元なり、信長なり、秀吉なり、または兄なり)から貰っている、ということが分かります。
 元康が家康と改めたのは、源氏を名乗るためもあり、八幡太郎義家の「家」をいただいたものと思われます。ただ、この時点で「家」を将来、代々受けつがせようとまで考えていたかは分かりません。
 三代目の家光は、父秀忠より祖父家康を尊敬していました(だから、家康を神として祀る東照宮をどーんと作って、祖父と自分の立派な墓を立てたのに、父は無視しています、ヤな子供ですね)。そこで、せっかく家の字を貰ったのだから、これを以後代々受けつがせようと考えたと思われます。
 家光は「自分は生まれながらの将軍だ、だから誰にも遠慮しない、オレの言うことに文句があるヤツはさっさと国に帰って戦の準備をしろ」と言ったことで有名らしいですが。
 綱吉は、兄が若死にしたおかげで思いがけず将軍になりますが、そういう父・家光の傲慢で殺伐としたポリシーが大嫌いだったとおぼしい。だから、「力ずくでない、友愛精神で治める国を作りたい」と考えたんですね。それが学問奨励策であり、世間にはびこる戦国時代以来の殺伐とした人心を一新するための「生類憐れみの令」と通称される一連の法令です。
 ところが、綱吉のあとを継いだ甲府宰相綱豊(兄・綱重の子)は、将軍となるとさっさと「家宣」と改名します。よっぽど綱吉が嫌いだったのは間違いありません。実際、まるで復讐のように綱吉の施策を次々にひっくり返していきます。その執行者は新井白石です。まるで小泉なきあとの亀井大臣のようなもんです。
 この時点で、「将軍になった時点で、家のつく名前に改名する」という新たなルールができます(14代家茂も、紀州藩主時代は慶福でした)。オレは家光公の直系だ、綱吉なんて知らん、というあからさまな態度表明です。
 「吉宗」という名前は、彼が紀州藩主になったときに、綱吉から貰った名前です。吉宗はすったもんだの末に将軍になった後も、「家」つきの名前に改名しようとしませんでした。それは何故かといえば、彼が綱吉を敬愛していた、少なくとも家宣や白石よりも綱吉の人柄に(政策の細かいところはともかく)心惹かれていたからです。
 世の中の多くのひとは、綱吉を貶めて吉宗を持ち上げていますが、ここのところをみな気付かないか無視しています。これはおかしいんです。実際、詳細に見れば吉宗の政策は、白石よりも綱吉(や柳沢吉保)に近い、とすらいえます。
 綱吉時代の柳沢吉保の経済政策がどんなもんだったか、従来はあんまり評価されていませんが、彼らが「元禄」という空前の好景気をもたらしたことだけは事実です。(詳細はいずれ後日 。)