前回書いたとおり、歴史的な事実から見て、仮定法現在で使われる動詞原形はshouldの省略などではありません。しかし、言葉をしゃべっている方はそんなことはいちいち考えていないわけで、実際にしゃべっているネイティブはどう考えているのでしょうか。私自身数多くのネイティブに聞いてみたわけではないのですが、あるネイティブに尋ねたところ(彼はオーストラリア人ですが)、「自分はshouldは使わない。なぜかというと、suggestとか、insistとか言った時点ですでにそこには『やれよ』とか『やるべきだ』という気持ちが出ているわけだから、さらにshouldを使うと冗長な感じがする。つまり二回同じことを言っている気がする。」と答えていました。「二回同じことは言わない」というのは英語話者の典型的な感覚です。つまり、「繰返しを避ける」という別の文法感覚が働いて、彼自身は「shouldを省略して使っている」気持ちになっているわけです。
●教える側のこころがけ
私がこれまで日本語文法のいろんな形式についてその起源を考えた時、歴史的事実を加味せずに勝手に考えたりすると、上記のようなことがよく起きました。つまり、その言葉の歴史的な由来やなりたちと、ネイティブの思い込みは別だ、ということです。それが言語の文法形式に変化をもたらすときがあります。例えば最近では「~せざるを得ない」というのを「~せざる終えない」あるいは「~せざる負えない」と話すひとがいます(これって結構イントネーションに違いが表れます。)。ひょっとすると将来的にこれが日本語の新しい文法形式として定着するかもしれません。昔は文末にしかつけなかった「~なので」は、今では接続詞として文頭に独立してつけるのがかなり自然になってきました(例:「~なんです。なので、・・」)。
文法を学習する時、「ネイティブの感覚」は大事ですが、しかし、裏付けのない場当たり的な感覚だけを頼りに文法全体を眺めた時、そこには少なからず矛盾が生じます。指導する側は、思い込みとか、どこかで聞いたことがある話を援用する際には、「何に書いてあったっけ?」ということを調べるくらいの手間はかけてもいいのではないかとおもいます。
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