「忠誠心と絆」リタが残してくれたもの。
臨時東京第一陸軍病院での訓練を終えたひらたさんとリタは、ますださんとボドより一ヶ月遅れて退院して、富山市の実家に帰郷しました。
当初、リタはボドと同じく玄関を自らの居場所に選びました。しかし、忠誠心の強いリタは、来客に吠えてしまうことがありました。
そこでひらたさんは、あえて畳の部屋でリタと生活を共にすることを選びます。
また、家族にも慣れてほしいと、あえてリタと家族だけで過ごす時間をつくったり、食事も家族が交代で与えるようにしたりと、心をこめた工夫が続けられました。やがてリタは子どもたちともふざけて遊ぶような、あたたかい関係を築いていきます。
ひらたさんはリタを伴って学校を訪れ、講演を行うこともありました。
雪がとけ、春の気配が感じられる頃には、かつて自分が目で見て歩いた野山を、今度はリタとともに歩きました。
こうして家族を交えての愛情に満ちた三か月は、あっという間に過ぎ去っていきました。
このプロジェクトの目的のひとつは、日本における盲導犬育成施設の設立でした。
ひらたさんも、将来的にその施設で育成や歩行訓練に携わる予定であったため、三か月後にはリタと家族を伴い、再び上京しました。
東京では、そうまさんたちが用意した代々木の借家から、リタとともに毎日陸軍病院まで歩いて通い、盲導犬の訓練指導にあたりました。
しかし、戦局の悪化もあり、施設建設の話は思うように進まず、やがてひらたさん一家は再び富山へと戻ることになります。
ところが、故郷に戻ってからの暮らしは一変していました。
戦争の泥沼化により、リタの主食である肉が市場から消え、十分に食事を与えることが難しくなっていたのです。
苦渋の決断の末、ひらたさんはリタを再び陸軍病院へと戻すことにしました。
別れの日、貨物扱いでケージに入れられたリタは、見送りに来た家族をいつまでも見つめていたそうです。
その後、リタとペアを組んだのは、戦地で砲弾の破片を受け、顔が歪むほどの重傷を負ったあべさんでした。
1942年、リタとともに大分の故郷に帰ったあべさんは、父の営む農業を引き継ぎました。
山道や畑へ続く細道や花畑を歩くあべさんの傍には、いつもリタの姿がありました。
決して贅沢な暮らしではありませんでしたが、自分たちで作った米や芋、そして魚をリタに与えられる環境がありました。
空腹に耐えることのない暮らし。そこには確かな幸せがあったのだと思います。
しかし、戦争はその穏やかな日々さえも脅かしました。
1945年、大分市にも空襲が頻発し、あべさんとリタは水田に身を隠すこともありました。
家は焼け落ち、親類を頼って避難生活を送ることになります。
そんな混乱の中で、リタは静かにその生涯を閉じました。
死因はフィラリアでした。
鎌倉での生活から始まり、富山では家族と心を通わせ、子どもたちと遊び、大分では時に戦火をくぐり抜けながらも、常に人の傍らに寄り添い続けた、しなやかで美しい盲導犬リタはあべさんの家族の手で、焼けた花畑に埋葬され、目印には松が植えられたそうです。
