ブリスの自己主張(盲導犬ブリスと犬の気持ちがわからないユーザーとのユニット) -4ページ目

ブリスの自己主張(盲導犬ブリスと犬の気持ちがわからないユーザーとのユニット)

盲導犬ブリスと犬の気持ちがわからないユーザーとの生活・・・

「同時に2人を誘導し続けたルティ」

ルティが残してくれたもの。



最後に登場するのはルティです。

日本にやってきた当初は、子犬の面影が残っていた彼女でしたが、デビューの頃には、すっかりレディに成長していたことでしょう。

後発で陸軍病院にアスターと共に献納されたルティは、徐州作戦で失明した軍曹とペアを組みます。

彼は退院後に大学へ進むことになりましたが、当時、大学では盲導犬との通学が許可されておらず、ルティは再び陸軍病院へ戻ってきます。

次に出会ったのは中国戦線で銃弾が両目を貫通して失明したいわくらさんでした。

彼は陸軍病院での二年間の入院を経て、和歌山市内近郊の実家にルティと共に帰郷します。

目が不自由では実家の農業を継ぐのは難しいと判断したいわくらさんは、鍼灸師の道を選び、県立の盲唖学校に入学を決めます。

そしてそこでかたぎりさんというやはり失明をした傷痍軍人とであうのでした。

かたぎりさんは、中国戦線で受けた銃弾が右の目尻から入り、鼻のうしろを通って左目から抜けて失明。銃弾を正面から受けていたら即死でした。

奇跡の生還をした彼は野戦病院を経て陸軍病院へと運ばれます。

その後、彼は、退院して和歌山市和歌浦の実家に戻りましたが、家業の蒲鉾屋を手伝うこともできず、悶々としておりました。その頃、県立盲唖学校で教師をしていた旧制中学の先輩から声をかけてもらい、それがきっかけになり、入学することを決めたのです。

二人は当時、傷痍軍人の社会復帰のために設けられた寮へ入ると、そこから盲唖学校へと通うのでした。

面識はなかったとはいえ、同じ時期に陸軍病院に入院しており、年齢も同じ二人の出会いは運命的だったのかもしれません。

そしてルティは、その確かな安定した歩行で、二人の失明軍人を毎日誘導したのでした。


ハーネスをつけたルティに誘導されるいわくらさん。その背後からいわくらさんの右肩へ左手を乗せてついていくかたぎりさん。いまならこのスタイルはタンデム歩行と呼ばれておりますが、当時はお二人による工夫から生まれた歩行方法でした。

優秀だったポドの異母妹であるルティもまた兄に負けない賢さでこの二人を卒業までの二年間、しっかり誘導し支え続けたのでした。指示をだしていたのはいわくらさんでした。

ルティは彼の命令に忠実に従い、共に歩き続けたのです。


寮での小さなエピソードがありました。

ルティは寮では1階で飼われていたそうですが、冬の夜中、寒さからかトイレのためか、たまにいわくらさんを呼ぶように吠えたそうです。そのたびに、2階の部屋で寝ていたいわくらさんは、暖かく身支度をして、1階のルティのもとへと降りていきました。

なんでもないようですが、温かい絆を感じます。

卒業後、かたぎりさんは地元で鍼灸師として開業し、いわくらさんは大阪へ移り住んだと言われています。

けれどその後、ルティと共に歩んだ道の先は、誰も知らないままです。


二人の失明軍人を一度に誘導していたルティの最後が幸せであったことを祈ります。



戦場で命を落とした仲間たちを想い、敵兵の死にさえ涙を流した兵士たち。

目に銃弾を受け、爆風に吹き飛ばされても、それでも戦おうとした兵士たち。

壮絶な目の痛みと失明という絶望を超え、生きる道を模索した兵士たち。

そんな彼らのそばにいつも寄り添い失った希望と微笑みを取り戻してくれたのは、盲導犬たちでした。


ドイツから来た4頭の盲導犬たちに続けと、和製の盲導犬もまた当時は十数頭いたと言います。

「東のハチ公、西のチトセ」と称えられたのは、あの優秀だったポドの子供であるチトセでした。

彼らをはじめ、戦中戦後に活躍した盲導犬たち。

しかしその多くの足跡は、終戦の混乱のなかに紛れ、消えていきました。

そして、日本で再び盲導犬の育成が本格的に始まるのは、彼らがドイツからやって来てから20年後の1958年のことでした。


あの戦火の時代に、ドイツからやってきた4頭の盲導犬たちがいたこと。

彼らが、失意の底にあった失明兵士たちを、再び前を向いて歩けるように導いたこと。

そして、笑顔を忘れた兵士に、微笑みを取り戻してくれたこと。


この物語は、忘れてはならない大切な記憶です。


四頭が残してくれた足跡を、私は忘れないでしょう。


ありがとうございました。