2021.6.6 Live Viewing | コノミのレポ用ブログ

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ライブレポ用。「なんとなく」で書いてるから実際と違うところがあっても大目に見てね。

2021.6.6
TEAM NACS第17回公演「マスターピース~傑作を君に~」
@ライブビューイング(TOHOシネマズ新宿)

やっと見られた本公演……!!!

キューモバ先行で一応現地も狙ってみたけど、あえなく撃沈。

コロナのことがあって千秋楽までいけるかヒヤヒヤしてたけど、なんとかこの日を迎えられてよかった!!

 

あらすじを書けるほどの記憶力と文章力がないので、印象に残った点とかをつらつらと書いていこうと思います。



★安田顕という名の怪物
今までも、顕さんに役が憑依してるなぁと思うことは多々あった。ベートーベンとか桜庭さんとか。
でも今回は次元が違うというかなんというか……
なにせ、乙骨さんと高田さんのキャラが真逆に近いんだもん。
ついさっきまで乙骨さんとして顔を歪め、顔も安田汁でびしょびしょだったのに、あっという間に高田さんで出てきてお淑やかな女性になる。
女中さんと脚本家の入れ替わりが結構激しいシーンも多かったのに、役の切り替わりがすごすぎた……

あと乙骨さんの時、一挙手一投足に自分を責めてる感じが出てるのがめちゃくちゃ好きだった……お酒を吐いて拭いてる時に膝を叩いてるとことか、枕投げでリーダーのことボコボコ叩いてるとことか……

そういえばこれ書いてて気づいたんだけど、顕さんが本公演で女性演じるの初めてじゃない??(昔のはどうか知らないけど、少なくとも円盤になってる本公演の中では)
小川町セレナーデとかひとり語りとかで女性のイメージもなんとなくあったから、ちょっとビックリした……そういえば昔はNACSの女形といえば音様だったもんね。



★数々の名言たち
「辞めても書くんじゃないかな」「辞めても辞められない」
私も二次創作としてひっそりと文章を書いてる身でして、そういう物書きとしての部分で刺さることもあったんだけど、見終わったあとに一緒に観劇した友達と話してて、創作じゃなくても言えることじゃない?という話になりまして。
スポーツだって、学問だって。
辞めても辞められない、それが「好き」ってことではないだろうか。
かなり個人的な話になるけど、私にとっては水泳と茶道がまさにそれでして。
1度辞めたけど、気づいたら戻ってた。
さらに、最近自分が目指してる道が本当に自分に向いているのか悩むキッカケがあって。
それについても、きっと好きなら辞めても辞められないんだろうなと思ったら、とりあえず進んでみようと思えた。

「生きていれば、きっとまた作れよう」
「きっとまた(傑作を)作れよう」とも取れるけど、「(自分の居場所を)作れよう」とも取れる気がする。前者は乙骨さんの、後者は猫さんの生き方、かな。
そして個人的には後者の解釈がとても好き。
何かを諦めても、生きていれば、きっと自分の生き方や居場所が作れよう。たとえ今と違う場所でも。
演劇人としては大部屋俳優までだったけど旅館では風呂番から番頭見習いになっている(=この仕事をずっと続けてしかも昇進している)猫さんの生き方が、説得力を増させる。

「もう2週間もですよ!?ちょっとこれ異常ですよ」
名言とは少し違うけど。
2週間外に出ないのは異常だよね、そうだよね……でも約70年後、多くの人が1か月以上も外に出ない世界が生まれたんですよ茶山さん……



★猫さんの笑顔
音様演じる猫屋六三郎。
とにかく笑い声と笑顔が特徴的なキャラだなと感じた。
だからこそ、その笑顔や前向きさが崩れる瞬間が見たい……と途中から思い始めていたことに後で気づきまして。
でも崩れる瞬間は1度たりともなかった。
怒りをあらわにすることはあれど、その理由はいつでも前向きだった。
それ故に猫さんは、劇中において他4人の歯車を回す潤滑剤であり動力である位置づけだったんだな、と。

(いつもお兄ちゃん4人を少し引いたところから見てる“末っ子音尾琢真”を想起させる気もするなというちょっとメタっぽい思考)



★オーバーラップ
舞台は昭和27年。終戦から7年後の話。
当時はまだ、戦争を経験した人々の心の傷が生々しく残っていたのだなと感じる発言がちらほら見られた。
その中で、「戦争で生き残った人達」というくだりが出てくる。
そこで頭をかすめたのが、PARAMUSHIRの桜庭さん。
最後に「一緒に映画を見たかった!」と言っていたのを思い出しまして。
もしかしたら、灰島さんたちこの5人が作った映画を、占守島で散った仲間たちに思いを馳せながら見る桜庭さんっていう世界線も想像しうるのかなと思ったら少しウルっと……

桜庭さんは猫さんみたいに戦争思い出したくない派かな。美談にしようとはしなさそう。
あの戦いから慰霊祭までの間の桜庭さん、どう暮らしてたのか気になる……



★最大級のメタ発言
今回、今までで1番メタ発言多くなかったですか!?
小泉さんの「いっつも入れ違う!」とか、猫さんが乙骨さんに言った「お前しか呼べないんだよ!」とか。他にもいろいろ。個人的に一番笑ったのは、「木崎の姉さんも来てくれよ!木崎の姉さん!」と連呼する佐藤さん(3さん)に枕を投げながら「わかってるよ!」って言うリーダー(笑)。
こういうの、役者自身の知名度が高くないと面白さとして成り立たないんじゃないかな?と思うんです。もしメンバーの顔と名前を全く知らない劇団の舞台を見に行ったとして、こういうネタがあったらポカーン……ってなりそうだもん。
でもこれが面白さになりうる知名度があるかどうかは、外からの視点じゃないとなかなか評価しづらい。
だから、このタイミングで外部脚本だからこそ生まれたセリフな気がしました。いいか悪いかは別としてね。



★刀をペンに、映画を恋文に
映画の企画がポシャったから高田さんへ恋文を書こう、それを通してみんなの気持ちも昇華させよう(意訳)って流れになった時、ちょっとだけ「んん??」ってなった。
観衆が万雷の拍手を送るような傑作を!っていう規模のデカい話をしてたのに、それが1対1の恋文で代替できるの?っていう。
でもその後の乙骨さんのセリフで「たった1人の観客を思い浮かべて」みたいなくだりがあって、何となく腑に落ちた。
あの5人(4人?)が目指してた「傑作」は、言わずもがな大衆に向けて上映されて初めて生まれる概念。でもその「大衆」は、「個人」の集合体。「個人」に刺さって初めて、「大衆」にも刺さる。だからある1人の「個人」を思い浮かべて書くその作品は、「傑作」の候補になりうるのだ……と。
そして副題の「傑作を君に」が指す「君」も、書くものが映画から恋文に変わった瞬間、まだ見ぬ大衆から1人の女性(高田さん)に変化する——

(でも考えてみれば、脚本も恋文もどっちも最後まで書き上げてはいないんだよな……)



★ラストシーンについて
終わった直後からいろんな解釈が生まれてたラストシーン。
私の個人的な解釈も記録として書いておく。

「この舞台(マスターピース)を見ている観客」という本当に単純で純粋な視点に立ってみると、高田さんは「灰島さんを振り、いい男性とのご縁があり、旅館を辞めた」という状況にある人であって、4人が再集結したあの場に高田さんは来ないだろうと考えるのが自然だと思う。
そこに高田さんが現れちゃったら、見てる側は混乱してその後の展開が上手く頭に入らない可能性すらある。そうなったら本末転倒。
とすると、あの女性はお花ちゃん一択。
個人的にあのシーンの男女は、「お花と灰島」の2人だと思う。
桜の絶景、そして「これが見たかったのか」という気づきをキッカケに、灰島は夢(映画)と現実の狭間に立つ。「乙骨さん?」って呼びかけてるのでこの時点ではあくまで“狭間”(その前にあった告白のシーンで「夢か現実か分からなくなる」っていうセリフもあったし)。
そこから灰島は映画の世界に入り込む。つまりこのお花は幻のようなもの。
そしてお花と繰り広げるラストシーンによって、「灰島にとって脚本家を辞める選択肢はないこと」「これからも映画人として生きていくこと」「これから生まれる作品への期待」を示唆してるのではないかなと。
これから生まれる作品(茶山さんが持ってきた企画)は、もしかしたらお花と虎之助の話のリベンジなのかもしれない。


★最後にお気持ち表明的なアレ
正直、なんかいろいろと薄いな!と思ったりしました。
でも今まで舞台ってNACSしか見たことないし、NACSの脚本が全て重いお話である必要はないわけだけど……比較的軽いタッチの悪童も、華麗な伏線回収があって感動するものだし。そういうものもほとんどなかったな、って。
特にむずがゆかったのが、茶山さんのお金への執着心の話と、諸澤先輩の過去(戦時中?)の話。後に何かに響いてくるのかな?と思ったけどそうでもなかったし。
ただ、この脚本がいつ書かれたものなのかは分からないけど、コロナ禍に上演するものって考えるとこのくらいの薄さでよかったんじゃないかとも思ってます。そもそも情勢が暗いし、「戦時中だ」と揶揄されるような政策もあったし、そんな中で今までのリーダー脚本みたいな重~~い話だとなんか今まで以上に疲れちゃいそうな気がする。
あと雑誌のインタビュー読んで思ったのが、PARAMUSHIRの反動も少なからずありそうだなっていう。前回がすっごい濃くて重くて考えさせられる作品で、終わった瞬間から「次はコメディね!」って話が上がったっていうくらいだから、前作の重さの反動が故の軽さだったのかな、と。
どちらにせよ25周年の本公演だから、絶対に妥協はしていないはず。だから絶対にマイナスな理由ではないと信じています。