
「みんなテレビに毒されている。いつかは億万長者や、映画スターやロックスターに本気でなれると誰もが信じている。」
本作のファーストショットは、人間の脳内を顕微鏡で覗いたかの様に、脳の《恐怖を感じる神経》の超クローズアップだ。
そこから「The Dust Brothers」のサウンドと共にカメラが後ろに引いていく。
「ハリウッド・ドリーム・ザ・ライド/バックドロップ」の様にどんどん引き続けるカメラは脳内から出て「皮膚の小さな穴」から汗と共に体外に出て、その人物の口内に突き刺された「拳銃」の上でようやく止まる。
映画史に残る『セブン』の強烈なオープニング・クレジット、それを超えるセンスにまずはノックアウトされる。
ビジュアル的クールさと、作品のテーマと、ストーリーラインが完全に融合し、冒頭数分以内に「浮ついた」観客の心をガッチリ掴む。
こんな離れ技は、後にも先にも見たことがない。
「いつか必ず死ぬって事を心に刻み込め。すべてを失った者が本当の自由を知る。」
本作でブラッド・ピットが演じた「タイラー・ダーデン」というキャラクターは、イギリスの「エンパイア誌」が読者投票を集計した《史上最高の映画キャラクター100人》で第1位に選ばれた。
鬼気迫る怪演でピットが体現したダーデンは「男がそうなりたいと憧れ、女がベッドを共にしたいと願う理想の男」であり「スタイリッシュでクールでカリスマ性のある危険な雰囲気」という点で特に支持が集まったそうだ。
そして本作は、多くの男たちを虜にし、ファッションから思想までを崇拝するダーデン信者を生み、世界各地に実際に「ファイト・クラブ」が結成されるほどのカルト・ムービーになり、 「タイラー・ダーデン」は、チェ・ゲバラ、アインシュタイン、ミッキーマウス、ジェームズ・ディーン、ジミ・ヘンドリックス、マリリン・モンローに並ぶ《ポップアイコン》となり、その巨大な「現象」でポップカルチャーの歴史に深く刻まれたのだ。
「これはお前の人生だ。そして、1分ごとに死に近づいている。」
本作は、小説家チャック・パラニュークのデビュー作の映画化。
原作は、初めは「編集者に嫌な気分を味合わせたい」という動機から書かれ、溢れるアイデアを詰め込むうちに短編から長編に膨れ上がり、 1996年に出版社はこの「不穏な小説」の出版に踏み切る。
出版後、好意的な批評をいくらか受けつつやがてひっそりと本屋から消えてしまうが、ハリウッドが映画化権を買い「デヴィッド・フィンチャー」が1999年に映画化。
以降、大変な「評価と批判」を受け、そして原作小説と映画は共に世界中に多くの「カルト的崇拝者」を生み《教典》となる。
タイラー・ダーデンのセリフ「ルールその1。決してファイトクラブのことを誰にも話すな。そしてルールその2、決してファイトクラブのことを誰にも話すな。」を筆頭に、数々の「ダーデン語録」も世界中の観客の心を鷲掴みにしていった。
「ファイト・クラブには最強で最高に賢い男が集まってる。みんな潜在能力を持ってるのに、それを浪費してる。ほとんどの人間がガソリンスタンドの店員かウエイターだ。もしくは会社の奴隷。広告を見ちゃ車や服が欲しくなる。嫌な仕事をして、要りもしない車や服を買わされるわけだ。俺たちは歴史のはざまで生まれ、生きる目標も場所もない。新たな世界大戦も大恐慌もない。今あるのは魂の戦争。そして毎日の生活が大恐慌だ。」
「事実は小説より奇なり」というべき原作者チャック・パラニュークの波乱の経歴も実に興味深い。
彼の祖父は、些細な口論から妻を射殺し、家族を追いかけ回したのち自分を撃ち抜いて自殺した。
当時3歳だったチャックの父親は、難を逃れてベッドの下に逃げ込み、事の次第を全て目撃した。
祖父はクレーンに頭をぶつける事故に遭って以降おかしくなったという。
そして成長したチャックの父は結婚しチャックを授かるが、後に妻と離婚する。
妻との離婚後、雑誌の出会い欄で知り合った女性と付き合っていたが、運命の皮肉か、息子が書いた『ファイト・クラブ』が映画化された1999年に、その女性の元夫によって女性と共に銃で撃たれ、家ごと燃やされるという事件に巻き込まれ亡くなる。
「何でもできる自由が手に入るのは、全てを失ってからだ。」
『ファイト・クラブ』は、小説・映画とも主人公の「一人称視点」で進行し、主人公の名前は終盤まで明らかにされない。
ちなみに映画版のクレジットでは「ナレーター(Narrator)」と表記されている。
物語の主人公「僕」は、自動車会社に勤務し、全米を飛び回りながら事故車による「リコール」の調査をしている平凡な会社員。
プライベートでは高級コンドミニアムに住み、IKEAのデザイン家具、職人手作りの食器、カルバン・クラインやアルマーニの高級ブランド衣類などを「強迫観念」に駆られるように買い揃え、雑誌に出てくるような「完璧な生活空間」を実現させ、物質的には何不自由ない生活を送っていた。
一方で「僕」の精神は一向に落ち着かず、不眠症という大きな悩みもあった。
高級マンションで一人暮らしだが、何をしても退屈で、生きる気力がない。
そんな「僕」が、偶然出会ったタイラー・ダーデンに「殴り合いしたことあるか?」と尋ねられ、初めは半信半疑で殴り合ってみる。
だが、痛みの中に生きている実感を感じる。
そして二人は「ファイト・クラブ」を結成し、殴り合うことでファッションやショッピングに去勢された街中の男たちに「肉と骨の感触」を呼び覚まそうとする・・・。
「仕事の中身でお前は決まらない。預金残高とも関係ない。乗ってる車も関係ない。財布の中身も、そのクソみたいなブランドも関係無い。お前らは歌って踊るだけの、この世のクズだ。」
広告・映画・漫画などの大衆的な図像を作品の素材として取り入れた芸術《POP ART》といえる本作には、数え切れないほどの身近な「現実」が描かれる。
『セブン』のエピローグでも引用された《ヘミングウェイ》を初め《石鹸》《タクシー・ドライバー》《事故車》《クレジットカード》《北欧家具》《フォルクスワーゲン》《映画館》《セミナー》《虚無感》《セックス》《マイクロソフト》《ファッション》《拳銃》《ウィリアム・シャトナー》《猿の惑星》《防犯カメラ》《レンタルビデオ》《精神疾患》《テロリズム》《ゴルフ》《飛行機事故》《ガンジー》《暴力》《スターバックス》《IBM》《インデペンデンス・デイ》《金融会社》《ブルース・リー》《廃棄物》《タバコ》《医療》《テレビ》《殺人》・・・など、プロローグからエピローグまで現代社会に溢れては消えてゆく無限のキーワードが全て詰め込まれた139分。
そして始まるグローバリスム企業への反撃・・・。
男なら誰もが憧れるであろうブラッド・ピットの「強く危険なカッコ良さ」と、エドワード・ノートンの計算され尽くした演技プランによる精神的にも肉体的にも「脆く病んだ現代人」の見事な表現との化学反応。
「ジムに通ってるアホども。カルバンクラインが宣うような肉体を理想に思ってるなんて。あれが本当の男か?」
チャック・パラニュークの原作も危険な問題作として世界で論争になったが、映画版はさらに過激度が増していて、「この最低最悪な世界で楽しそうに暮らすよう仕向けられてるだけだ。」という挑発的なセリフや、表面上のバイオレンスや思想や「サブリミナル映像」の数々を全編にわたり仕込んである。
そういう点も含めて、まさにこの作品自体が《ハリウッドに対するテロ》とも言えるし、そんな「危険を恐れない賭け」に挑戦したフィンチャー組は役者も含めて最高にクールだ。
スタンリー・キューブリックに匹敵する程なかなかOKテイクを出さない完全主義のフィンチャー監督は、ほんの短いシーンであっても何度も何度もテイクを重ねる鬼監督として有名で、本作の約350シーンの132日間に及ぶ撮影には、通常の映画の3倍の量である1,500缶以上のフィルムを使用したそうだ。
「ウジ虫ども自惚れるな。お前らは美しくもなければ特別でもない。他と同様、朽ち果てて消えるだけの有機物質だ。」
「生きている実感」を感じられない主人公は、殴られることによって痛みを知る。
そして痛みを感じることで、生きている実感を味わう。
監督のフィンチャーいわく、本作はバイオレンスやセックスを観客に見せつけたり、暴力やテロを肯定する作品では全くなく、「なぜ我々はここにいるのか」「何のために我々は生きるのか」を問いかけるドラマを目指して撮ったそうだ。
物語の表面だけを見ると「暴力肯定」と思われがちの本作だが、実は「暴力否定」がテーマなのだ。
そしてもう一つのテーマ「物質的な満足感は、精神的な満足感とは結びつかない」という痛烈な問いかけは、裕福な国ばかりである先進国の中でも極端に「幸福度」が低い現代の日本人に当てはまる。
世界的に見れば、物質的に恵まれ満足感は多いはずなのに「精神的な満足感」が「物質的に貧しい国々」よりもずば抜けて低いという日本。
本作の深いテーマは、裕福さの陰で「心の成長」だけが取り残された我々日本人の心にグサリと突き刺さる。
もしかして我々は・・・「この最低最悪な日本で楽しそうに暮らすよう仕向けられてるだけ」・・・なのだろうか。
「俺たちは消費者だ。ライフスタイルの奴隷だ。殺人、犯罪、飢餓なんてもので俺は悩まない。俺を悩ませるのは芸能雑誌や、500チャンネルもあるテレビ、ブランド下着、育毛剤、バイアグラ、ダイエット食品、ガーデニング。何がガーデニングだ。タイタニックと一緒に沈んでしまえ。」