ゴーン・ガール | 愛すべき映画たちのメソッド☆

愛すべき映画たちのメソッド☆

映画感想家・心理カウンセラー・芸術家のNatsukiです☆

『映画にどんなに素晴らしいメッセージが含まれていようと
「娯楽性」がなければ作品としては失敗だ』/レオナルド・ディカプリオ



「生まれる前から一緒だったのよ、愛しているわ。」



綺麗事を排除して言うならば、恋愛や結婚でパートナーと「生活を共にする」という事は、大なり小なりの「自分を偽る」という行為は避けられない。

ある意味「最高の役者」に徹することが出来た二人が「永遠」に「死ぬまで」寄り添うことができる。

本作はこの「死ぬまで」という言葉が鍵を握る。

「仮面夫婦」という言葉は決して他人事ではなく、どの家庭にも当たり前にある事なのだ。

表向きは誰も肯定しないというだけで。

本作の結末を目撃した観客はきっと自分の境遇や人生に重ね合わせてズドンと落ち込むことになる。

それほど本作は一緒に鑑賞したパートナーと永遠に語り合える程の普遍的なテーマを剛速球で投げかけてくる。

「男女」「恋人」「結婚」「夫婦」という簡単には方程式が解けない、さらには「答え」が無いに等しい難問・難解さは、超ブラックな『ブルーバレンタイン』のようであり、超現代的な『危険な情事』のようだ。

「輝かしい過去」と「不穏な現在」を同時進行で交互に見せ「対比・比較」させギャップを浮かび上がらせる構成も『ブルーバレンタイン』を思わせる。

5回目の結婚記念日に、夫は妻が失踪したと知る。

鋭い観察力の警察と、無責任なSNS、過激化するマスコミ、それぞれの圧力が重なり夫の温厚な人柄のイメージがだんだん崩れ始める。

彼の数々の不確かな言動に世間はある共通の疑問を抱き始める。

「夫が妻を殺したのではないのか?」と・・・。

この現代ならではの「噂の急速な拡散」からの「不確かな情報に世間が翻弄される」そして「世界中が騙される」という流れは『白ゆき姫殺人事件』を彷彿とさせる。

2002年のクリスマスに起こった「スコット・ピーターソン事件」をベースにした本作は、女性作家ギリアン・フリンによる同名小説を基にしたミステリー映画であり、彼女は脚本も担当している。

監督は神経質なまでに「超」が付くほど完璧主義で「1シーン=50テイク」は撮るという『セブン』『ファイトクラブ』『ゾディアック』『ベンジャミン・バトン』『ソーシャル・ネットワーク』『ドラゴン・タトゥーの女』の、天才にして鬼のデヴィッド・フィンチャー。



「君は何を考えている?どう感じている?僕たちはどうする?これからどうなる?」



子供を育てる時、「世間体」や「第三者の眼」や評価などを過剰に意識してはいけないと言われている。

「世間体・第三者の眼や評価」ばかりを最優先に気にしてしまう「臆病」な子供になってしまうからだ。

本作はそんな「理想の子供」を期待し「甘やかす親」と、その期待に応えるべく「理想の子供」を永遠に追い求めるようになってしまう「甘やかされた子供」の結末が描かれている。

「甘えさせ」とは180度違う「甘やかし」のせいで「アダルトチルドレン」になってしまった大人は、永遠に子供のまま「自己肯定感」を追い求め、人の道を踏み外す恐れを持ち、そのまま恋愛し結婚し「親」になる。

「ありのままで」育たなかった子供は、偽りの自分を止めることも、偽りの自分に気付くこともできないまま成長し、100%偽物の大人になるかもしれない危険性を持っている。

そして、それをパートナーにも強要したり求めたり、相手が拒絶反応を示しても受け入れてもらえるように突っ走ったりする。

ありのままの「本当の自分」を親に受け入れてもらえずに育った子供の末路は、本当の「ありのままの姿」を見失い、最悪の結果を招いてしまうかもしれないのだ。

人間を一人育てるということの重み、人間を一人育てるということの難しさ、子供に「自尊心」を持たせる方法・・・。

育児はノープランでは無理なのだ。

オープニングとエンディングに「全く同じ場面」が2回出てくるが、全く同じ場面でありながら180度違う見え方のギャップにとても驚かされ背筋が凍る。

そして「GONE GIRL」という二つの単語にそれぞれ多くの《真相》が隠されている・・・。



「これが結婚というものでしょ?」