
「お風呂も一緒に入らないんだって?子どもは《時間》だよ。父親だって、取り換えのきかん《仕事》やろ。」
是枝監督お馴染みの「子役に台本を渡さない」手法で、本作もドキュメンタリーの様に生々しく、子供たちの輝いた笑顔が詰まっている。
父親メインの話ではなく、尾野真千子と真木よう子の「母親」の対比も非常に面白く、お互いの怒りと悲しみの表現の違いも印象深い。
真木よう子の「サッパリさ」に隠れた優しさも良く、子供に対する自然な言動が温かくてリアル。
主人公の妻である尾野真千子の喜怒哀楽にも心を揺さぶられる。
我が子を温かく見つめる「微笑み」、真実を知った時の「狼狽」、夫にぶつける「怒り」、母親として真実に気付けなかった事に対する「自分への腹立たしさ」など、尾野真千子の場面は全て泣ける。
福山雅治演じる主人公は、「厳格な父」であろうと日々振舞っている。
「都会暮らし」「お受験」「ピアノ教室」・・・。
そして、6歳の息子を男として自立させる為なのか仕事に追われているからなのか「お風呂」も「寝かしつけ」もせずに、全て子供一人にさせている。
そんなある日、息子が「他人の子」だという事が判明し、リリーフランキー演じる家族と交流する事になる。
主人公がその家族を「粗野」で「無神経」という目でしか見れない事で、まだ本当の「父」ではない事が浮き彫りになってくる。
挫折を知らずに地位と財産を得ている主人公は、自分の育児方針が「大人中心」だと認める事ができない。
リリーフランキーの家族を見下している限りはなかなか本質に気付けない。
皮肉にも「子供を入れ替える」事により「父親としての自分」の未熟さに気付く事となる。
いくらお金があっても、子供と接する時間が無ければ「子供の心」は成長しない。
「厳しさ」では子供の「心の豊かさ」は育まれない。
子供と笑いながら風呂に入り、笑いながら遊び、笑いながら一緒に寝て、壊れたオモチャも簡単に修理するリリーフランキーに育てられた子供は実に「いきいき」とした笑顔だ。
だから子供本来の「いたずら」も「自己主張」もちゃんと出来て、「パパとママのところに帰りたい」と訴える事ができる。
一方、主人公の息子は「都会」「勉強」「しつけ」などの「子供にとって」厳しい制約だらけの中で息苦しく生活している為に「自己主張」を学べずに育ち、ほとんど喋らない。
それ以上に、自我を押し殺し「我慢」をしてしまっている。
パパとママとは二度と会わないという「ミッション」を忠実に守り、「会いたい」という感情を一切出さない。
それは厳格な父であっても「大好きなパパ」との約束だから。
本当は会いたくて寂しくて泣きたいくらいなのに。
そういう子供の「内心」に親が気付くか気付かないかで、大人へ向かう子供の人格は大きく変わっていく。
同じく厳格な父に育てられた主人公自身の人格の様に。
ラストで主人公は息子に向かい合い、自分を「できそこない」だと認め、本当の意味で「父」になる。
傷ついた子供たちは、ラストの大人たちの決断で「笑顔」を取り戻せたのだろうか。
深い余韻の残る、素晴らしくも静かな幕引きに、誰もが自分自身の人生をオーバーラップさせるだろう。
「じゃあこうしよう、むこうはパパとママ、こっちはお父さんとお母さんと呼ぶんだ。」
Android携帯からの投稿