
「血なんてつながってなくたって、一緒に暮らしてたら情は沸くし似てくるし、夫婦ってそういうとこあるじゃない・・・親子もそうなんじゃないかしらね?」
本作の中では意外にも「ネガティブな存在」としてストーリーの軸になる福山雅治演じる主人公は、人並み以上に裕福で温かみの無い人格という点を除けば、大多数の日本の親を象徴した存在だ。
ピアノの発表会で上手く弾けなかった息子に「悔しくないのか?」と言ったり、日頃から息子と「完璧な自分」とのギャップに苛立っている。
ある日、自分の息子が「他人の子」だと判ったときの第一声が「やっぱり、そういうことか」だった事からもそれは判る。
その場に息子はいなかったが、その言葉は妻の胸に突き刺さり、後に夫婦の確執の原因となってしまう。
本作には数々の父親と母親が登場するが、主人公は表向きの人生の全てが完璧なのだが、実は「親」としては一番未熟な存在なのだ。
明らかに自分より生活レベルの低いリリー・フランキー家族はもちろん、息子を含めた全ての人を「無意識に」見下している。
だから仕事一筋で育児も妻に任せたままだし、世間体や「しつけ」などの「表面」ばかりを気にして「子供の心理」を全く見抜けていない。
どんな家庭の子供でも本当は「親の愛情」を欲している。
子供は親と一緒にお風呂に入ったり、一緒に寝たり、一緒に遊んだり、一緒に笑い合いたいだけなのに。
「箸の持ち方」や「ピアノの上達」や「お受験の面接」や「ストローを噛まない」ことや、一人でお風呂に入ったり一人で寝れる様に成長する事などの「しつけ」は、子供の「心を育む」為には本当は二の次なのだが、どうしても親としての「厳しさ」や威厳を最優先にしてしまう。
それは自分も親からそうやって厳しく育てられたからだった。
その為に主人公の息子は、幼いながらも無理に「我慢」したり、親の望む通りに振る舞い、「自我」を押し殺して毎日を過ごしている。
子供の目線で本作を観てみると何が見えてくるだろうか。
子供から見たら、ある日突然、問答無用で「親を交換」させられたのに、親に疑問も文句も投げかけずに全てを無条件で受け入れてしまう。
6歳にして「自分が我慢していれば全て丸く収まる」という思考になっている。
つまり、主人公の家庭は、育児では一番危険なパターンに陥ってしまっている。
この「裏テーマ」はリリー・フランキー家族とは対照的な構図になっていて判りやすい。
主人公が「子供の取り違え」という大事件に直面したことにより、逆に「一番大切なもの」=「子供の心」という事に気付く。
そのおかげで「大好きなパパとママ」の為だけに自己犠牲をしていた子供の長く険しい人生は、最後に報われる事になる。
子供視点で本作を観れば「そして子になる」という結末だが、映画が終わった後も続くまだまだ先の長い両家族の人生は、もしかしたら平坦な道だけとは限らないかもしれない。
物語の「その後」を想うとまた目頭が熱くなり、じんわりと心に響く。
「愛した息子を、《交換》できますか?」
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