「黙祷」 あの日、自宅は震度6 でした。 | 曇り時々晴れ、雨のち虹〜Ei♾️Enn@花と光のメッセンジャー

曇り時々晴れ、雨のち虹〜Ei♾️Enn@花と光のメッセンジャー

花と光のメッセンジャーEi♾️Ennとして、愛と調和、ワンネスをお伝えするセッショニスト。人とのご縁を大切にしながら永遠に進化を続けます。
乳癌告知から丸5年で根治。ブログ記事の最初の方は闘病記録です。

今朝、夜勤の職場で仮眠をとって
身支度を整えて
ふと時計に目をやると
5時45分。
あと1分。そして、5時46分から1分間
黙祷を捧げました。

29年前は、
まだ結婚前で実家に居てました。
住まいは大阪府池田市で、兵庫県の隣。
あの瞬間、ゴゴゴ、、、と地鳴りが聞こえドンッと縦に落ちたあとしばらく激しい揺れがありました。
頭の上に落ちて来るのは絵の額だけ!
と思ってベッドの掛け布団を頭から被って揺れが収まるのを待ちました。

収まると父の声が聞こえました。

オイ!!
オイ!!

私は父母の寝室に入って
びっくり!
大きな箱型のテレビが転がり、本棚の本は全て落ちていて、その上、
母の布団の上にバッファローの大きな角が突き刺さっていました。
父は無事でした。
ところが母の姿が見当たりません。
1階に降りてみると母は柱にしがみついていました。
なんと、
地震が起こる15分前、腹痛で1階のトイレに行っていて、無事だったのでした。

家族がみんな無事で、ホッとして、
私は当時の職場に様子を見に
車を走らせました。
場所は、宝塚市。震度7。
宝塚市に入り、ため池の周りに水上に建てられた家がたくさんあったのですが、
目にした範囲は見るも無惨な状況でした。
窓を開けるとガスの臭いがして、ガス管が破損していたようでした。
あちこちの道路はひび割れ、住宅はひし形になっていました。1時間半かけて当時勤めていた職場に到着。
上司が一人だけ来られていました。
すぐに家から私に電話がありました。

母の体調が良くないから
早く帰ってきて!

と、弟からの連絡。
上司からも
すぐに帰りなさい、
と言われて
すぐまたガタガタの道を通り
無事に帰宅しました。

数日は自宅待機していたと思います。
その後、阪急電車が動き始めてから
宝塚市役所内で、
支援物資の仕分けや、
炊き出しの手伝い、おにぎりをひたすら
握っていました。

実家は
実際には震度6。
自宅は半壊の状況でしたが、
電気も水道もすぐに復旧しました。

家族が揃って、温かい場所にいて、
食事もとれる。

日々の暮らしのありがたさが、
時に、ストレスになりました。

私は無事だった。家族も無事だった。
でも、
そうじゃない人達が
目の前に沢山居られる。

1日も早く安心できる日常が戻る事を
願っていました。

もう、
あの頃の記憶も途切れ途切れになり、
でも、
北陸の地震の状況をテレビで見て
同じ状況だ、
と感じました。

大丈夫
必ず復興できる。
私達は
こんな時こそ
助け合い乗り越えていける。

でも、
実際の現場の皆様の今の状況に
今日は特に
祈りを捧げずにはいられませんでした。

必ず乗り越えていける。

信じています。