無題 | しあわせになりたかったのに

しあわせになりたかったのに

すみませんでした。

疲れていて。
カウンセリングを受けてさ。
つかれていたから、あんまり喋らなかったのさ。
それでも、思うところは訥々と言葉にして。
僕なりに、伝えようとしたんだけどな。
カウンセラーには「私に警戒してる」とか言われてさ。
何にも伝わらなかったんだ。
言葉が出にくい。
そういう障がい特性なんだけどね。
それを理解されにくい。
生きづらい理由そのものなのにね。
伝わらないんだよ。
お金払って、よけいに疲れて。
そういうこと、僕には何度もあるんだ。

カウンセラーはさ。
喋らない僕に、自分の過去の話を聞かせた。
パニック障害で自分が家から出られなかった頃の話。
何年も寝たきりのような暮らしをして、身の回りの支援をしてもらうため家政婦に来てもらった。
家政婦はうつ病を抱えていて。
親にも理解されなかった自分の苦しさを、家政婦が理解してくれた。
その家政婦と話すことで、自らの苦しさは和らいでいた。
そんな話だった。

ひとは、人の苦しみに触れるとき、自分の苦しみも少し慰められるんだろう。
理解される、分かってもらえる、そういう感覚に少しだけ、自分の苦しみも和らぐのだろう。
とはいえ、ひとは全てを語らないし、全てを分かりもしないんだ。
ただひととき、共にあることで、癒しか許しか慰めか、或いは言葉にし得ない安らぎか、得ることもあるかもしれない、というくらいのことだ。
すごく漠然とした希望なんだ。

根本的には、人は分かり合えない。
僕はそう考えている。
不理解、拒絶、隔絶、失望、幻滅、嫌悪、そんな体験の方が、僕の日常には多く転がっている。
それでも誰かと関わり続けることで、どこかで誰かになぐさめられたら、と思っている。
どこかの誰かと、すこしだけでも、共にあれたらと願っている。