おんな城主 直虎…全話を一気見しての感想① | ショーエイのアタックまんがーワン

ショーエイのアタックまんがーワン

タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

どうも…ショーエイです。

昨年の大河ドラマ…おんな城主 直虎を一気見してみたのですが…

脚本家があの「JIN 仁」を手掛けた森下佳子という人だったのですが…

 

フィクションのドラマとして見れば良い話に纏めたと評価できる感じですが、

大河ドラマというノン・フィクションが求められるモノとして見ると、

全く辻褄の合わない愚作となってしまいます。

 

大河ドラマで、

ドラマだから歴史フィクションでも良いという感じは多々あるので、

作品としては史実とは全く違う別世界の話…

いわばIFの状態なら、

直虎という架空の人物がそういう生き方をした話とすれば

綺麗なお伽話で評価は出来ます。

ただ、大河ドラマという冠上、

架空の人物では無く実在の人物として描くのなら、

歴史とのつじつま合わせが全く無い愚作と言えてしまうのです。

 

残念なことに、IT技術の進歩でWIKI調べが容易に成ったご時世では、

視聴者の興味ですぐに「実際の所」を簡単に調べられてしまう点を考えねば成りません。

これは脚本家が原作者を兼ねた状態で連載という意味合いで考えると、

一概に脚本家の責任にするという点は言えません。

逆にNHKのスタッフや社員がもっと真剣に対処すべき事だったとも言えます。

ある意味、脚本家の機嫌を損ねない為に、

NHKのスタッフが史実との照合で口出ししなかった様な裏話も見えてくる訳で、

結局、作品を綺麗に纏めても、

書き上げた実態は作中で悪役にやらせた忖度事情が見えてしまう

皮肉な状態であったとも言えます。

まあ、表面上と書き上げた人間のギャップがある作品で、

上辺だけの良い話と言えてしまう内容と酷評します。

 

いわば直虎の理想的な姿(表面上)を描きつつ、

実際、作家は大名時代の今川氏真の立場で書いた話という内容に

見えるという事です。

 

詳しく言えば、

史実を自分の都合で捻じ曲げるがゆえに、

史実の奥底に潜む真理を無視したストーリーに成り、

史実に潜む奥深い駆け引きが、逆に浅いモノに映ってしまったという事です。

 

まあ、因みにオッサンは市川海老蔵の信長にちょっと期待してみたらしいのですが、

所詮は歌舞伎役者…信長の真理に及ばぬレベルと残念に思ったとの事。

真・戦国無双のイメージで演じただけだろ…

オリジナリティの無いコスプレ?

と、まあ彼の人気を敵に回す様な言い方をしています。

人気が有る相手だから酷評するのはそれを敵に回すので怖い…

これでは直虎に出てくる直虎如きに馬鹿にされる愚将と同じで、

それこそ真理に反する行いで…田舎者の長いモノに巻かれる状態と言えてしまう。

 

故に、ダメなものはダメとハッキリ言って、

それを擁護する人間も纏めて切り捨てる。

これこそ信長流という事らしいのです。

因みに、海老蔵より

菅田将暉くんに信長をやらせる方が面白いと言ってます。

 

では、作品の内容…

ほぼ、WIKIと照らし合わせると、グジャグジャな内容に成ります。

勿論、WIKIに出てくる話が全て史実では無いにせよ、

外せない情報…

例えるなら信長公記>信長記という直近の記述を優先して見るなど、

WIKIには参考資料先が明記されています。

そうした比較を元に、ほぼ一致した情報であれば、

外せない情報として考えねば成りません。

この外せない情報が蔑ろにされてストーリーを組み立てると、

全然違う世界の話となってしまいます。

主人公に都合のいい設定に変換したがゆえに、

主人公の夢だけの話…お伽話に成ってしまうのです。

 

また、庶民レベルの先入観で作るがゆえに浅い話に…

徳川が信長を恐れていた、

信長が徳川を恐れていた…

ハッキリ言って農民レベルのビビりな発想…

人間不信とい病気に掛かったような話しです。

これは今回の脚本家のみならず、

日本で評価される作家全体にも言えるレベルで、

参考するに値しないレベルといえます。

 

逆に日本の作家でも司馬遼太郎氏などは評価できる人たちで、

史実の内容を吟味した上で、

上手く史実との辻褄を合わせて史実で見えないフィクション部分を

物語として描いていると言えます。

因みに彼の作品で「国盗り物語」というのが有り、

前半は斎藤道三、後半は信長なのですが、

信長の記述に関しては…「何を考えているか解らない」

という言葉が多々見受けられます。

 

実際、心理学における「誤解」が史実を複雑化させる部分で、

ビビりな人間ほど「誤解」を生じさせるというのは、

現代における人間関係でも共通して言えることです。

ある意味、「人の優しさの裏には何か潜む」

こういう誤解する心理が囁かれるのも事実で、

真意で優しくしても、裏を誤解して逆に不信感を抱くという作用も生じます。

 

戦国の世ではこうした心理作用がもっと強烈に出てくるもので、

裏切り=死という部分で意識されたであろうことは理解すべき点といえます。

 

いわば、ヤクザの親分の優しい一面と

その裏にある闇組織を纏めるという点を考えた時、

貴方は彼の優しさを好意的に受け入れられますか?

という心理部分です。

そしてその優しさを受け入れられずに警戒心を抱いてしまう。

そして隙を見てその関係から逃げ出そうとする。

自己の視点で見れば当然の事の流れに感じるのですが、

では、本意の優しさで接した相手はどう感じるか…

貴方の怯えた心情など相手は全く知る由も有りません、

それゆえに隙を見て逃げた行為は、

裏切られたと激情させる話に成り、

結果、逃げた人間が警戒していた事が

そのまま降りかかる事となるのです。

 
戦国時代に於ける心理状態はほぼこれに近いと言えます。
 
野良ネコが人間を警戒してすり寄らないのと一緒で、
手なずけるには時間が掛かります。
ただ、沢山いるネコの中で、警戒心を持たずに近づいてくるネコは、
逆に可愛く思えてしまいます。
無論、相手がネコ嫌いだった場合は、それは罠で、
警戒心を持たないネコは馬鹿に見えます。
しかし、例えば自分の家を糞尿で荒す事態が発生した場合、
可愛いネコは見逃して面倒見るが、
懐かないネコは駆除しようという対象に成る点は否めません。
 
何が正解で何が不正解なのか…
結果のみ知るところで、
ネコなら頭で行動をコントロールすることは叶いませんが、
人間にとってはそこは人生の選択という駆け引きなのです。
それをネコと同じでレベルで、
一方のみを信じて行動する…アホと見られも仕方のない話です。
ネコでも賢いネコは、距離感を保ちつつ、
警戒心と好奇心の駆け引きで相手を見極める事が出来るのですから、
人間もその位の駆け引きは考えていきましょう。
いわば、怯える農民は侍が近づくと逃げていくが、
駆け引きを知る農民は、侍と距離を保ちつつ交渉で相手を探る、
当時の社会構成はこういう事でも有ったと理解できます。
そして土地を荒す行為が一揆としたなら、
それを駆除する行為も必要に成るわけで、
どちらが善でどちらが悪かという話は、
一概には見極められない所でも有ります。
 
ノン・フィクションで話を書く場合、
そこは歴史に対する裁判であることが一番望ましい。
いわば善か悪を見極めるには色々な事情が重なる為、
また当時の社会構成上、報復行為として当然だっただろう事柄などを考え、
見ていくことが大事なのです。
そして裁判の如く、史実に有る証拠を照らし合わせて、
心情でありその情状をさぐる事が大切です。
そしてそれを考えさせる作品ならば、
色々な方角からの興味を引き込む…
 
②に続く…