「もういちど読む山川哲学」その12 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「終始何かさらにしたい事、するはずの事があるように思っている。ただしそのしたい事、するはずの事がなんだかわからない…自分が遠い向こうにある物を望んで、目前の事をいい加減にすませていくのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注していることに気づいた。」(森鴎外『カズイスチカ』)

「主人公の新進気鋭の医学者は研究熱心なあまり、ありふれた病気だとつまらないと思う。その一方、田舎の宿場町の医師に安んじている父が、日々、庶民の診療に全力を尽くしている姿に、おのれに欠けている何かを感じる。若者は未来に憧れ、『ここで自分は何をしているのか』と今をつまらなく思うこともある。遠くを望むのもよいが、一方で、おのれが置かれたこの場において、今なすべき事に全力を傾ける。それが人間の仕事でもある。それをぬきにしては、よい未来もあるまい。鴎外をその心境をドイツ語でレジグナチオン(諦観・諦念)と呼ぶ。それは消極的な諦めではなく、自らの運命を受け入れ、それを積極的に自分の運命となして生きぬく覚悟である。人生において、自己の内面的な欲求と与えられた環境との違和感、ミスマッチはつきものである。しかし、はじめから最高の条件の環境を要求する前に、まずは与えられた環境の中で、自己の最高のパフォーマンスを発揮することである。日々の仕事が平凡に見えても、つまらなく見えても、まずはそれに全力を傾注する。それをぬきにしては、人生の次のステップも開けまい。自分の置かれた場所で花を咲かせよ、である。」