出口汪「やりなおし高校国語」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「国語の教科書には、相反する方向性を持った二種類の教材が掲載されている。文章を論理的に読むことにより、考える力をつけるためのものと、人生や世の中の深淵と直に向き合わせるものとである。前者は評論が中心であり、筆者の伝えたいことは何で、それをどのような論理で説明したのかを読み取るものである。そして、文書を論理的に理解したからこそ、そのことへの思考が始まるのである。後者は答えのない深い問題をどこまでも凝視し続けるものであり、文学や哲学、いわゆる西洋でいう教養につながるものである。この相反する方向性をもった二つの教材を、教える側も教えられる側も無自覚に同じ国語の教材として扱っている。そこに、国語が役に立たないといった事態の大きな原因があるように思える。」


「人は主観的な生き物であり、それゆえ、何を読んでも、それを主観で再解釈し、結局は自分の狭い価値観や日常的な生活感覚の中で消化してしまうことになる。その結果、自分の価値観に合うものをおもしろいとし、それ以外を受け付けようとしない。それではどんな名作を読んでも、自分の世界を深めることなどできないのだ。」


「夏目漱石『こころ』は、戦後、ほとんどの教科書が掲載してきた。まさに定番中の定番である、もちろん、『私』が親友Kを裏切って、Kが好きだったお嬢さんとの結婚を決め、その後Kが自殺をしてしまうという、恋愛に絡めた衝撃的なストーリーが、思春期にある高校生にとって痛切に感じられる小説である。だが、私は『こころ』を理解することは、高校生にとっては不可能に近いと考えている。いや、『こころ』は様々な経験を積んできた大人にこそ読んでほしい小説なのだ。『こころ』は人の心の不思議さを、そっくりそのままつかみとろうとした作品であり、この作品の深いところで鑑賞することは、世界観が揺さぶられるような、衝撃的な体験であるはずである。それと同時に、『近代』という時代背景を理解することが『こころ』の鑑賞において不可欠である。


「小林秀雄の『無常ということ』、小林秀雄の難解さは、彼が合理主義的な捉え方を拒んでいる批評家だからである。すべての対象に対して、理屈で無理矢理納得するのではなく、もっと心の奥深いところで、その総体として捉えようとしているのだ。『無常ということ』もそうした一つであり、小林秀雄独自の歴史観に裏打ちされている。」


 アトランダムに抜粋した。ほかに丸山眞男「『である』ことと『する』こと」、森鴎外『舞姫』、山崎正和『水の東西』など取り上げている。