ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」その2 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「『人間とは自らの不幸を嘆く愚痴多き動物なり。』この言葉の出典がどこか、私はよく知らない。一度シャロンの文章のなかで、出典を明らかにしないままで引用されているのを見たことがある。そしてそれ以来、この言葉は名言というか、悲痛の真理として、しばしば私の心に浮かんだものであった。少なくとも長年の間、私にとっては真理であったのだ。自分を憐れむという贅沢がなければ、人生なんていうものは堪えられない場合がかなりあると私は思う。この自己憐憫のおかげで自殺から救われている場合がどれだけあるか分からないと思う。ある人にとっては、自分の不幸を語ることは大きな慰めであろう。だが、そんなことをしゃべったところで、ただ黙って考えているうちにしみじみと味わわれるあの深々として慰めなどは得られるべきもなかろう。私の場合、自己憐憫のこの癖が昔を思ってめそめそするといったものでなかったことはありがたいことであった。現に苦しみに直面していた場合でも、そのためにあがきがとれなくなるほど根強い悪癖になることもなかった。この癖につい負けたとき、私は自分の弱さに気がついていた。そうやって慰めを感じたとき、私は自分自身を何て情けない奴だと思ったものだった。たとえ『自ら不幸を嘆きつつも』、私は嘲笑的に笑うことができた。そして今では、われわれを支配している、知られざる力のおかげで、私の過去をその死せるものを葬ったのである。いや、それだけではない。わたしは自分が今までに経てきた生涯のすべての出来ごとの必然性を、まじめに、しかも快く承認することができる。かくなるべきであったし、また現にかくなったのである。このためにこそ自然は私を作ってくれたのである。その目的がなんであるか、もとより私の知るところではない。しかし、永遠から永遠にわたる万象の流れのなかで、私の定められた運命はまさにかくのごときものであったのだ。」


「いつも私が恐れていたように、もしも私の晩年が無残な貧窮のうちに送られたとしたら、はたしてこれだけの人生観を私は得ることができたであろうか。仰いで天上の光を見ようともせず、不平たらたら、ただ自己憐憫の奈落の底に沈み、のたうちまわっていたのではなかったろうか。」