細川護煕「不東庵日常」その7 | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「さて、『正法眼蔵』だが、道元さんは『只管打坐』という。『打坐して心身脱落することをえよ』と言う。『只管打坐』は『ただひたすら座れ』ということだ。しかし『心身脱落』の意味はむずかしい。紀野一義さんは次のように解釈しておられる。」


「それでは『心身脱落』とは何か。心身とは体と心である。その二つが脱落したら何が残るか。わたしは人間が心と体の二つでできているとは思わない。人間は心と体と魂の三つから成っているというべきである。心と体は父母から受け、遺伝もするが、魂は違う。・・・・これは仏からくるものだとわたしは考えている。これはまた『霊性』といってもいい。心身が脱落して後にあらわれくるものはこの『霊性』である。これがあらわれ出たところを『さとり』というのではあるまいか。座禅はこの霊性の顕現であるといっていい。座禅して霊性が顕現するのではない。座禅していることのなかに霊性のあらわれがあるというべきである。」


「こう考えるとたしかにわかりやすい。道元さんがいおうとしたのはこういうことかもしれない。結局、わたしは過去の座禅によって、とくに何かを悟ったということはなかった。座禅にもひたすら没入したわけではないから『心身脱落』どころではない。しかし、そのときどきの精神の平静を得ることはできたように思う。今参禅していないのは、白隠のいうように『動中の工夫は静中の工夫に勝る』からで、むしろ動中において自らを養うことを考えるべきだろうと思ったからだが、一方で仏教関係の書は相変わらず手にとっている。特に近頃はやはり死生観にかかわる記述が心に懸り、『正法眼蔵』の中の『生死』の章などには歳とともにますます関心を抱くようになった。」


 あとがきにはこうある。「もともと本を読んで気になった章句があると、できるだけメモをとるようにしていた。また、付箋を貼ったり、傍線を引いたりもよくする。しかし、まとまった読書ノートをつけているわけではないから、メモの紙切れが散逸したりして、本書の執筆に際しても、あらためて記憶をたどって本をひっくり返し、引用文を確認することも再々だった。しかし、その過程で、過去に読んだ本のあれこれを思い起こし、再読したものもあり、あらためて精読する必要を感じたものもある。また、読み残していた本に気づいたり、新たな参考書に出会ったりしたのはいい経験だった。」

これこそ読書の楽しみではないか。