細川護煕「不東庵日常」その3 | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

「ライクロフトは自分の読書について率直に語る。ある程度の年齢に達した人なら、次の独白にも大いに同感するに違いない。」


「最後まで私は本を読み続けることだろう。――そして忘れつづけることだろう。全くの話、これには自分でもほとほと困るのだ。自分が今までに折にふれては貯えてきた知識を完全に自分のものにしていたならば、私はあえて自らを学者だと自負することもできよう。絶えることのない心配、苦悩、恐怖ほど記憶力にとって悪いものはないのだ。かつて読んだもののうちからわずかばかりの断片しか私は覚えていないのである。それでも私は、しつように、喜んで読みつづけるだろう。まさか将来の生活に備えて博学になろうとしているわけでもない。もう忘れるのも苦にならなくなった。刻々にすぎてゆく瞬間瞬間の幸福を私はしみじみと感じる。人間としてこれ以上求めるものはなにもないと思う。(『ヘンリ・ライクロフトの私記』春―17)」


「もともと私はイギリスのいわゆるカントリー・ジェントルマンの生き方に憧れをもっていた。言葉としては『カントリー・ジェントルマン』の方がいくらか現世的で、田園生活のなかでなお時事を語るような感じがあるのに対して、『晴耕雨読』はより隠棲的、思索的で世俗を離れたニュアンスがあるような気がするが、洋の東西で読書や自然とのふれあいを中心として静かな生活を理想とするところがあるのは面白い。私の場合は、さしずめ両者の混合というところかもしれない。」


 「ヘンリ・ライクロフトの私記」本棚にあった。