小室直樹「日本人のためのイスラム原論」その9 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「コーランとは神が与えた最終最後の啓示であるわけだが、それと同時に、聖書の『最終解釈』についても述べられている。その一例をあげれば、旧約聖書の中にでてくる楽園追放のエピソードをキリスト教では、『これこそが人間の原罪の始まりであり、根拠である』と考える。この原罪があるがゆえに、神の救済を待つしかないというのがパウロの教えであった。」


「ところが、コーランを下したもうたアッラーは、そうしたキリスト教徒の解釈を一笑に付して、こう述べるのである。たしかにアダムとイブは、サタン(蛇)のそそのかしに乗せられて、禁断の木の実を食べてしまった。そこで私(アッラー)は彼らを楽園から追放することにした。これは事実である。」


「しかしその後アーダムは主から特別のお言葉を頂戴し、主は御心を直して彼に向かい給うた。まことに主はよく思い直し給うお方。主は限りなく慈悲ぶかいお方。我ら(アッラー自称)は言った、『さ、もろともにここから堕ちて行け。しかしやがてわし(アッラー)は汝らに導き(コーラン)を下しつかわすであろう。その時、わしの導きに従う者は決して恐ろしい目に逢いはせぬ。悲しみに逢うこともあるまいぞ』」(コーラン)


「つまり、確かにアダムは神の言いつけに逆らったが、それで神は人間を見放したりはしていない。その後、慈悲深いアッラーは考えを変えて、人間を救うことにした。そこでコーランを与えたというわけである。よって、キリスト教徒の考えるような原罪は存在しないというわけだ。これはまことに驚くべき後日談だが、たしかに道理には合っている。というのも、もし、人間が恐るべき罪を犯したというのであれば、神はそれっきり人間を放っておけばよかったわけで、その後、アブラハムやモーセ、あるいはイエスを通じて、たびたび人間に啓示を与えた理由がよく理解できない。だが、もし神が原罪を与えていないのだと考えれば、これですっきり話が通るというわけだ。」


 後段の部分は少しわかりにくい。