小室直樹「日本人のためのイスラム原論」その5 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。この三つの宗教はいずれも唯一絶対の神から与えられた啓示、すなわち啓典を信仰の基本に据える。これを啓典宗教と呼ぶ。ユダヤ教においてはトーラー、キリスト教においては福音書、イスラム教においてはコーランが啓典である。」


「だが、同じ啓典宗教でありながらキリスト教には、ユダヤ教やイスラム教のような規範が存在しない。キリスト教において問われるのは、あくまでも信者の内面である。信仰心である。では、いったい何を信じればいいのか。これに対して、パウロをこう答えている。」


「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスとよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(『ローマ人への手紙』)。イエスは十字架上で死んだが、三日後に甦った。これはイエスが神であるからなのだ――このことを信じるだけでいいのである。信じるだけで救われる――なんと驚くべき教義であろうか。」


「ユダヤ教、イスラム教を信じる者からすれば、いや、仏教、儒教のような非啓典宗教の民が聞いても、びっくり仰天する話である。日常生活での実践や修業は何にも要らない。善行をなす必要もないというのだ。いや、ひょっとしたら悪行をなしても神が救ってくださるかもしれない。こんな思想を信仰といったいいのか。」


「では、なぜ信じさえすれば、神は罪深き人間を救ってくださるのか。パウロは、それをこう解説している。つまり、イエス・キリストは十字架の上で死ぬことによって、本来、人間が背負っている原罪を贖ってくださった。これによって人間は神の恩恵によって救われることになったのである。だから、人間は神の万能を讃え、神を信じなければならない。」


「わかったような、わからぬようなという感想を持つ人も多いだろう。いや、不思議に思わぬほうが、どうかしている。このキリスト教の教えくらい奇妙奇天烈なものはない。なぜなら、仮にイエスの昇天によって人間の原罪が解除されたとすれば、もはや信仰すら意味がないのではないか。原罪がなく、黙っていても救われるのなら、どうして信仰しなければならないのだろうか。いや、そもそも、人間は原罪によって死すべき運命を与えられたはず。だとすれば、原罪がなくなった以上、人間は不死の存在になっていなければ理屈に合わない。だのに、いまだに人間には寿命がある。これは矛盾していないか。」


「考えていけば考えていくほど、頭がこんがらがってくるではないか。明治の代表的クリスチャンである内村鑑三でさえ、それを認めている。『これ(キリスト教の贖罪)はまた非常に奇態な教義でありまして、多くの人をつまずかせるものでございます』(「宗教座談」)。


 キリスト教の理解も深めたい。