佐伯啓思「西田幾多郎」その6 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「西田は『物となって考え、物となって行う』といいました。そしてそれをまた『行為的直観』ともいいました。それはどういうことでしょうか。」


「たとえば、『徒然草』の冒頭に吉田兼好は次のように書いています。『つれづれなるままに、日ぐらしすずりに向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』『あやしうこそ、ものぐるほしけれ』というのです。また『もの』です。『何やら妙な心持で、ものに憑かれたようだ』というのです。隠遁して、一日、じっと硯に向っておれば、様々な事柄が心の奥に映し出されてくる、というのです。まさしく、西田の『無の場所』を鏡として物事を映し出しているようです。小林秀雄は、この『ものぐるい』を解釈して、『ものがよく見える』『ものがよくわかる』といいました。それは、『ものがあまりに見えすぎ、わかりすぎるつらさ』だというのです。つれづれなる隠居などというものは決して気楽でもなければ安らかなものでもありません。」


「われわれはしばしば、このやっかいな現実世界から身を引き離し、日常を離れて隠遁し、じっと物を考え、観照することが『無』になることで、この『無』をへて『ものの本質』が見えてくる、といいたくなります。」


「しかし、西田のいう『ものとなって考え、物となって行う』は、この種の隠遁とは全く異なっている。西田のいう『直観』は全くそうではない。むしろ正反対で、何ものかに憑かれ、それこそ突き動かされ、そこにはもはや『私』や『我』の意識が入る余地がないような行為の中でこそ、人は行為や存在の意味を直観として把握する、ということなのです。」