佐伯啓思「西田幾多郎」その5 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「『西田中毒』というようなものがあるのかも知れません。あの難解な文章を読んでいるうちに、西田ワールドから抜け出せなくなってくるのです。たとえば、例の悪名高い『絶対矛盾的自己同一』などもそうです。『行為的直観』にせよ、『絶対無の場所』にせよ、あるいは『生即死』だとか『有即無』だとかいった概念も、確かにそうとしかいいようがないように思えてくる。ひとたび『なるほどそうか』とわかる(わかった気になる?)と、他に言いようがないのです。」


「こうなるとかなり中毒段階も進んできます。わざわざ別の言葉で説明することもないではないか、分かる者だけが分かればいいじゃないか、という気にもなってくる。独りよがりとはいいませんが、わざわざそれを他人に向けて説明したり、西田について論じたりすることもどうでもよくなってくる。何かそういう境地になってきます。そのうちこの哲学の見えない格子に捕捉されてゆくのでしょう。」


「確かに西田哲学には毒があります。落とし穴というべきかもしれません。あるところで西田自身も書いていますが、自分の書いたものは超のつく難解だといわれる。だけど、どこかある個所をつかんでそれが分かれば、すべてわかってくるような種類のものだ、というのです。面白い自己評ですが、まさにそのとおりで、突然、ある時に分かったような気がするのです。すると、あのわけのわからない文章で、彼が何をいおうとしているのかが、読み解けるような気になってきます。そのうち、あの文体でしか書けないのではと思えてくるのです。秘境的で謎解き的なところがある。しかしそうなると、この『わかった』という境地の方が大事になって、それを説明する必要がなくなってしまうのです。もしも分かりやすく説明できるのなら、そもそも西田自身があんな文章を書かなかったでしょうから。」


 

 小林秀雄にも同じことが言えるのでは。