佐伯啓思「西田幾多郎」その4 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「西田の哲学はしばしば『無の哲学』といわれます。『無の場所』『絶対無』『無の自覚』といった『無』という言葉が彼の哲学のキーワードになっているからです。西田哲学の『無』については、また後で論じてみたいと思いますが、さしあたりここで述べておきたいことは、『無』へ辿りつく彼の思索が、決して彼の人生上の苦難や悲哀と無関係ではない、ということなのです。いや、人生上の苦難なら人によっていくらでもあるでしょう。西田は、それを『悲哀』として感じ取り、さらにそれを突き詰めて『無』という、いわばいっさいを脱色し、感覚的なものもそぎ落とした抽象的概念に辿りついた、ということです。このように、彼は自分の人生を昇華し、もはや自分一人の人生というものを脱色してしまったのです。」


「西田の文体の難解さは、ほとんど他人に読ませようという配慮のないところで書かれており、いわば自己のとの対話であり、考えを書きつけ、また考える、といった体のものです。つまり、彼は、悲哀を感じ、苦痛を感じる己を徹底的に内省し、自己の内面の最も深いところまで降りて行くことで、己を消し去ろうとしていたのでした。」


「この徹底した内面への沈潜、もしくは自己了解は、自己を消去するという形で自己を超え出てしまう道でもありました。自己のうちなる根源へ向かうことで、もはや、人生の悲哀や苦痛や楽しみに一喜一憂している自己や自我などというものを消し去ってしまおうとしたのです。その先に彼が見出したのが『無』としか呼びようのないものだった。根源にあるものは、すべての現象の彼岸であり、またそこからすべてを生じさせる『無』にほかなりません。子供の死には何か意味がなければならない、と西田は書いていました。死に意味がなければならない、人生の出来事にはそれぞれなりに深い意味がなければならない、と彼は書いている。」


 西田哲学のエッセンス