山本淳子「平安人の心で『源氏物語』を読む」その3 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「『きぬぎぬ』とは、『衣衣』のことだ。愛の一夜をともに過ごした男と女の、めいめいの衣をいう。褥にいる間、衣は二人の体を覆っている。だが愛の時間が終われば、二人はまたそれぞれに衣をまとう。だから『きぬぎぬ』は、逢瀬の翌日、二人きりの時間の終わる時をも示すことになった。」


「『しののめのほがらほがらと明け行けば おのが衣衣なるぞ悲しき(東の空が晴れやかに明けてゆくと、もうそれぞれの衣を着る時間だ、悲しいこと)』という和歌がある(『古今和歌集』恋三詠み人知らず)。『ほがら』は現代語では明朗な性格をいうが、古語では晴れ渡った空の明るさをいう。この歌の作者は、おそらく男だろう。いまだ恋の名残を残した心は別れの悲しみに曇るのに、空はどんどん明るさを増す。あまり明るくなっては、女のもとを去るのに人目について恥ずかしい。つれない空に泣きたいような気持なのだ。」


「この『きぬぎぬ』の時間に相手におくる恋文が『後朝の文(きぬぎぬのふみ)』。現代のカップルの、デート終了後に交わすメールとよく似ている。駅で手を振って別れたら、電車に乗る前にもうメール。ラブラブな二人なら当然ですよね。平安時代も全く同じで、後朝の文が早く来るのは恋心の強さの証拠。男たちは女と別れて家路につくや否や、その道中からもう和歌を考え始める。恋とは結構忙しいものでもあるのだ。」


「後朝の文は男と女がそれぞれの『燃え度』を伝え合うものだった。だから後朝の文が遅ければ、それは『愛情が浅い』という信号だった。光源氏は末摘花との逢瀬の翌日、夕刻まで後朝の文を送らない。おまけにその歌も『夕霧の』で始まる。『夕』では『後朝』の文にはならないではないか。」


 源氏物語六帖「末摘花」巻から抜粋