井筒俊彦「イスラーム生誕」その3 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「ここで特に注意しなければならないのは、ムハンマドが、それまでのアラビアに全然知られていなかったアッラーという新しい神をどこからか持ち込んで来たのではないことだ。アッラーは沙漠の古い神である。しかも他の数百の神々と肩をならべる偶像の一つだったのではなく、カアバの祭祀においてはアッラーは神々の中で至高の位置にあった。一般のメッカ市民たちもアッラーの優位ということは無条件に認めていた。しかし、理屈の上でこそアッラーの至高性を認めながらも、彼らは現実には、もっと身近な下位神たちを信仰して、アッラーをともすれば忘れがちだった。アラビアばかりではない。どこの宗教にもあることだが、一般の善男善女が日常生活上の細々した願いごとをしたり、考えたり、誓いを立てたりする相手としては至高の神ではちと大きすぎる。だから本当の生命の危険が迫ったときなどにはアッラーを憶い出すが、ふだんはもっと小さな、親しみやすい神様で満足している。『汝らは常々偶像どもに祈りながら、海上に会って危険迫るときは、偶像を措きて、ひたすらアッラーに救いを請い求む。されど、ひとたびアッラーが汝らを救いて陸地に届け給うや、たちまちにして汝らは背き行く。げに人間は忘恩のものなり』とコーラン第42章69節に言われているのはその意味である。『禍難に襲われるときは主に顔を向け、主に喚びかけながら、主が恩顧を下し給うやたちまち以前の己が祈願を忘却して、偶像どもをアッラーと同列に置く』とも言われている(第39章11節)。」


 聖書ものがたりを読むときも、新旧聖書が必要だったが、イスラムもコーランが必要