加藤周一「読書術」その2 | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「小林秀雄さんの『鉄斎』についての一書を読んで、よくわかる人もあり、よくわからない人もあるでしょう。むずかしいと思う人もあり、やさしいと思う人もあるでしょう。どうして人によってそういうわかり方の違い、むずかしさの違いが出てくるかといえば、それは、小林さんが使っている言葉の定義をどの程度まで正確に知っているかということではなくて、読者がどの程度に「鉄斎」を見ているか、つまり、読者の側での絵を見るという経験の有無、あるいはその深浅によるのでしょう。これは幾何学教科書の場合とよほど違った事情です。初等幾何学教科書がむずかしい、またはやさしいというのと、小林さんの『鉄斎』がやさしい、むずかしいというのとは、意味がかなり違っているように思われます。小林さんの『鉄斎』の場合は、読者が一つの文句を読んで、その表現の意味がいちおう分かっただけでは、じつは何にもわかっていないということになる。」


「本当にわかるということは、その文章の読んでただ単におもしろがるというのでなく、なぜ小林さんが、そこでそういうことを言っているのか、納得がゆくということでしょう。『なぜこの定理から、この系がでてくるか』――それは論理の問題であり、論理の問題は言葉で言い表すことができます。『なぜこの第一印象の後に、この感想が出てくるか』――それは論理の問題よりも、著者の経験の質の問題です。経験の質は、決して言葉によって十分に表すことができません。想像するほかはない。想像することができなければ、二つの文章はつながってこないでしょう。」


「読者は読みながら、文章を通して、その背景に、うしろ側からその文章を支えている著者の経験を感じなければなりません。しかし、そういうことを感じるためには、読者自身が著者の経験とほとんど同じ種類の経験をあらかじめ持っていなければならないでしょう。ほんとうの難しさは、そこにあります。そのむずかしさを乗りこえる道は、ただ一つ、その絵を見て、同じ種類の経験を自分のものにすることだけです。」


 モーツァルトを一度も聴いたことがない人が、小林の「モーツァルト」を読んでもわからない。