辻邦生「背教者ユリアヌス」その5 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「だが、私が言いたいのは、彼らの言い分にまったく考慮の余地がないかどうか、ということだ。もし純一さがこの世を救うなら、これら自殺党の若者の考えを広めるがいい。これにまさる純一さはないからな。だが純一さを目ざすという口実のもとに、権力者を抱えこみ、大司教の座を狙い、多くの殺戮を犯し、なおかつその教義の真理を言いたてるのであったら、アブロンよ、私は、その説にはくみしない。私の考える真理とはそんなものではない。真理がなんで自らの手を血で汚す必要があろう。正義がなんで自らを不正な手段でまもる必要があろう。いや、アブロン、私は少なくともこの点に関しては、あなたとはっきり意見が違う。私は正義とはあらゆる強制を含まぬものと思っている。正義とは自由に他ならぬ。少なくともただ自由の中だけに存在するのだ。だからそれはバッカスの司祭たちが夏の夜陰にまぎれ歩くように、人間に多くの危険をもたらすのだ。しかしその危険を通ってしか、人間がそれに達しえないとしたら、私は、やはりこの道を選ぶほかないだろう。あなた方は人間について多くを知っている。現実がどのようなものであるか、鋭く見ぬいている。そのことを私は疑わない。だが、それにもかかわらず私は人間を自由の中に放置する。私は人間を強制しようとは思わない。百年たっても人間は愚かであるかもしれない。五百年たっても人間は自発的に正義を実現しようとしないかもしれない。千年の後にもなお絶望が支配しているかもしれない。しかし人間が人間を自由な存在としたこと自体が、すでに正義の観念を実現したことなのだ。あとは千年か、二千年か、あくまでこの観念をまもりぬくほかない。二千年たってだめなら、三千年待つのだ。それでもだめなら、なお千年待つのだ。そして結局人間の歴史の終わりにそれが実現されないことがわかっても、人間が正義の観念をまもりぬいたということだけは、少なくとも事実としてそこにあるのだ。アブロン、私は、皇帝の信じるところに従っている。だが、それは、私のこうした考えにもとづいているのだ。私が秩序に従うことを求めるのも同じことなのだ。自由があるからこそ、人間の秩序に意味があるのだ。」