「もしあの人に会うことがなければ、私は真に人を愛するということがどのようなものであるか、知らずに終わったに違いない。もちろん私は将軍の誰かれ、侍従の誰かれを思い者にするようなことがあったかもしれない。あるいはそのうちの何人かは私に情念の火の幾分かを味わわせたかもしれない。しかしあの人に会わなければ、私は、愛というものが、これほど与えつくし、燃えつきることで自らの幸せを保つものであることを、ついに知ることはなかったにちがいない。こういう愛を私はコンスタンティウスにも感じたことがなかった。皇帝は粗野な小心な愛情をかたむけて私を愛している。そして私も儀礼のかぎりをつくして、今までそれに応えてきた。しかしそこには、この痛いような、うずくような感情はない。この感情こそはユリアヌスが私の中につくあげた悲哀にみちた蜜なのだ。それは花の香りのように甘やかで芳醇でありながら、憂鬱で、暗く、気まぐれなのだ。あのとき私はもはやそうした感情の中に耽溺するには、自分が分別の年齢に達しすぎていると思った。私は不意に現れたこうした感情の動きをわらおうと思った。またそれを痛々しくも思い、不憫に感じようともした。しかしそんな冷ややかな気持ちは見せかけのものであることはすぐに分かった。私はユリアヌスを見ると、一瞬、あたりが華やかにゆれ、自分の心が快くときめくのを押えることができなかった。私はこの幸福なゆらめきのために自分にできるすべてをやろうと決心したのだった・・・・・」
エウセビアの思い
いま読んでいる『イノベーション・オブ・ライフ』第2部第6講『幸せな関係を築く』に以下の記述がある。
「愛する人に幸せになってほしいと思うのは、自然な気持ちだ。難しいのは、自分がその中で担うべき役割を理解することだ。自分の一番大切な人たちが何を大切に思っているかを理解するには、彼らとの関係を片づけるべき用事の観点からとらえるのが一番だ。そうすれば、心から共感を養うことができる。『伴侶が私に一番求めているのは、どんな用事を片づけることだろう?』と自問することで、適切な視点をもって、ものごとを考えられるようになる。関係をこの観点からとらえれば、ただ漠然と自分のなすべきことを憶測するより、ずっと明確な答えが得られるはずだ。ただし、伴侶があなたに片づけてほしいと思っている用事を理解するだけではだめだ。その用事を実際に片づける必要がある。時間と労力を費やし、自分の優先事項や望みを喜んで我慢し、相手を幸せにするために必要なことに集中するのだ。また子供や伴侶にも、他人に献身的に奉仕する機会を積極的に与えよう。相手のために一方的に何かを犠牲にすれば、相手との関係を疎ましく感じるようになると思うかもしれない。だが私の経験から言うと、その逆だ。相手のために価値あるものを犠牲にすることこそ、相手への献身が一層深まるのだ。」
クリステンセンはいう。「間違った観点に立って開発されたせいで、失敗する製品は多い。顧客が本当に必要としているものではなく、顧客に売りたいものにしか目を向けないのだ。ここで欠けているのは共感、つまり顧客が解決しようとしている問題への深い理解だ。同じことが人間関係についてもいえる。私たちは、相手にとって何が大切かを考えもせず、ただ自分に必要なものを得るために、関係を結ぼうとする。そんな見方を変えることは、人間関係を深めるための、きわめて効果的な方法だ。」
「用事を片づける」深い言葉だ。