塩野七生「ローマ人の物語14(キリストの勝利)」その3 | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「なぜ、若輩の未経験者なのに、突然与えられた副帝の責務を、誰もが予想しなかったほどに成し遂げたのか、と。隠れていた才能が発揮されたのだ、とする人が多い。しかし、隠れた才能が発揮されるには、何らかの強い動機があってこそではないだろうか。では、何が彼を、それほどまでに強く動かしたのか。私の想像するには、責任の自覚と、任務を続けている過程で生じてきた昂揚感、ではなかったかと思う。この時期のユリアヌスが学生時代の友人に送った手紙には、次のように書かれてあった。」


「プラトンとアリストテレスの弟子を自認していた私に、今やっている以外のことができると思うかね。私に託された不幸な人々を、見捨てることなんてできると思う?彼等に幸せな日常を保証するのは、今では私の責務なんだ。私がここにいるのは、それをやるためなんだ。税金の不当な取り立てを繰り返すしか能のない皇宮内の無神経な盗人どもから、民衆を守るのは私の役割ではないだろうか。戦闘中に大隊長が彼に託されていた部署を放棄したとすれば、彼に待っているのは死刑と埋葬すれも許されない不名誉だ。彼よりも断じて高く神聖な地位を与えられ、それに相応した責務を課せられている私がそれを放棄したとすれば、どんな処罰がふさわしいだろう。神々が私にこの機会を与えてくれたのならば、それを行う間は神々は私を守ってくれると信ずる。もしもこの責務を遂行中に苦悩に襲われたとしても、その時も純粋でまっすぐなこの自覚が、私を支えてくれると思うのだ。サルティウスのような相談相手を失って困り果てているのは確かだが、いつか誰か、彼の代わりをできる人に恵まれることを願いながら仕事は続けている。だが、代わりの誰かが送られてくるかどうかさえもわからない。代わりが送られてくれば、その人と協力する気持ちは充分にあるのだが、それでも一人で何もかもやらねばならない今のこの時期を、できる限り活用しようとは思っている。一人だから、民衆のための政策を実施するのも自由にやれるからね。その今が、長い間たれこめていた邪悪の雲の、ほんの少しの切れ目でしかないとしてもだ。」


 辻邦生の「背教者ユリアヌス」にこんなところで出会うとは。