仲正昌樹「マックス・ウェーバーを読む」その7 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家的になしとげられたものばかりである。それゆえ、いわばみずから遮眼革をつけることのできない人や、また自己の全心を打ちこんで、たとえばある写本のある個所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。(『職業としての学問』)


「『学問』を経済と同じように効率性を追究しながら拡大していくシステムとみるのであれば、『専門化』とは、『分業』を通しての効率化にほかならず、その傾向に従うことは、分業体制の歯車になることを受け入れることを意味する。しかし、ウェーバーは、このことが研究者にとってポジティブな意味も持っていることを示唆しているわけである。専門に特化した方がその分野の固有の厳格な方法論を身に付けやすいし、一つの対象に集中的に取り組まざるを得ない状況が生まれてくる。自己限定を通して、いろんなところを脇見せず、テクストの中のたった一か所の解釈に全力を投入し、分かった時に大きな喜びを感じるような、地道な研究姿勢が培われる。そうした、学者でない人間にはわかりにくい姿勢、更に言えば、他分野の学者にとってもなんでそれが面白いのか理解しにくいような対象に打ち込める姿勢が、重要だというのである。『プロテスタンティズムの倫理と資本主値の精神』の用語でいえば、『禁欲』である。」


 『職業としての学問』から抜粋。

 荻生徂徠、伊藤仁斎の学問姿勢を思い出した。