山川世界史「ルターとカルヴァンの宗教改革」から | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「15世紀ごろ、多くの諸侯領に分裂していたドイツは、教皇庁による財政的搾取の対象となっており、各層にローマ教皇への不満が鬱積していた。そこで1517年の秋、神学教授ルターが『九十五カ条の論題』で、教皇レオ10世の売りだした贖宥状(免罪符)を攻撃すると、その反響はたちまち全ドイツに広がり、各地に宗教改革の運動をひきおこした。ときの皇帝カール5世は、ルターを1521年のヴォルムス帝国会議に喚問し、異端的な説の取り消しを迫ったがはたさず多くの諸侯や自由都市がルターの精神に沿って教義の改革・修道院の廃止などの変革を進めていくのを防止できなかった。もとよりバイエルン・オーストリアなどカトリックにとどまる諸侯もあり、両派の対立は一時、武力抗争(シュマルカルデン戦争)にまで発展したが、結局1555年、アマクスブルクの和議で、ルター派諸侯とカトリック諸侯の同権が認められた。」


「この間、1524~25年には、ドイツでルターの改革運動の鼓舞された農民が、ミュンツァーらの指導下にドイツ農民戦争と呼ばれる大反乱を起こしたが、諸侯により鎮圧された。これ以後、ルター派の教会形成は諸侯の主導下に進められていく傾向が強まった。」


「同じころ、スイスでも人文主義とルターの影響下にチューリッヒでツヴィングリが宗教改革をはじめ、やがてフランスから亡命してきたカルヴァンが、ジュネーヴで、信徒の道徳的紀律をいっそう強調する改革派教会をうちたてた。彼はルターが維持した司教(監督)制を廃する一方、牧師を補佐して教会員の指導にあたる長老の制度を設けた。また魂が救われるかいなかはあらかじめ神によって定められているが(予定説)、各人が救いのめぐみを信じ、禁欲的な態度で職業労働に励むことをつうじ、神の栄光を世にあらわすべきだと説いた。この考えは西ヨーロッパの勃興しつつあった市民層のあいだに広く普及した。」


 

  教科書ではどのような記述がされているのか確認した。