永田諒一「宗教改革の真実」その2 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「宗教改革派はすばやく活版印刷術の利用価値を見抜いた。彼らは思想宣伝のために、安価、大量の活版印刷物を流布させて成功を収めた。しかし、一方のローマ・カトリック教会はどうかというと、これに消極的であったために遅れをとってしまった。彼らが消極的であったのは、民衆が文字文献を使用することを否定する中世ヨーロッパの文化的伝統に縛られていたせいである。伝統的な考え方によれば、文字を読むのは知識人階層だけで、信仰の事柄をはじめとして、民衆は、知識と権威のある人々から口述で知識を得るべきとされていた。」


「さらに、コールの研究によれば、ローマ・カトリック教会の内部には、民衆に文字を使用させることの否定だけでなく、印刷された文献そのものへの根強い抵抗もあったことがわかっている。宗教改革がはじまって七十年以上を経た1590年代でも、カトリック教会では儀式のときに、手書きで書き写された祈祷書が一般に用いられていたという。多くの聖職者が、まだ活版印刷によるテキストを使うことに抵抗感を示したからである。」


「また、シュポンハイムの修道院長トリテミウスがドーイツの修道院長ゲルラハに宛てた1494年のある書簡は、印刷された書物への懐疑的な見解を率直に示しいる。彼によれば、伝統的に『筆写を仕事とする僧侶がいるのだから印刷術は不必要であり、筆写本の立体的な印象を与える美しさと芸術的なフォルムは、到底印刷本のなしうるところでない。また、羊皮紙は紙より五倍も長持ちする」。さらにトリテミウスは、筆写本と筆写僧の仕事をほとんど神聖なものであるとして、ある筆写僧が死んだとき、埋葬された肉体が朽ちた後も、ペンを握る右手3本の指だけはまだ血が通い続けているかのように生き生きとしていたという伝え聞きのエピソードを紹介している。」


 かつて富士通のワープロが出始めたころ、このようなもので文章を書くことに非常な抵抗を示した人々がいた。携帯電話しかり、メールしかり。