仲正昌樹「マックス・ウェーバーを読む」その5 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「官吏である以上、『憤りも偏見もなく』職務を執行すべきである。闘争は、指導者であれその部下であれ、およそ政治家である以上、不断にそして必然的に行わざるを得ない。しかし官吏はこれに巻き込まれてはならない。党派性、闘争、激情――つまり憤りと偏見――は政治家の、そしてとりわけ政治指導者の本領だからである。政治指導者の行為は官吏とは全く別の、それこそ正反対の責任の原則の下に立っている。官吏にとっては、自分の上級官庁が、――自分の意見具申にもかかわらず――自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを、命令者の責任において誠実かつ正確に――あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように――執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。これに反して、政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為を自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。官吏として倫理的にきわめてすぐれた人間は、政治家に向かない人間、特に政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。(『職業としての政治』)」


「この箇所に、ウェーバーの『指導者としての政治家』観がはっきり表れている。『政治指導者』は、自ら達成しようとする目標を明確にし、それの実現に向けて闘争を行い、その帰結に対して一人で『責任』を負おうとする人間である。それに対して、官庁に勤める官吏の倫理は、上級官庁から与えられた命令――自らの信条や価値観に左右されることなく、というより完全に自己否定して――淡々と執行することである、自分の意志でやっているわけではないので、執行した政策の帰結に対して本当の意味で責任をとることはできない。政治指導者と官吏では、倫理のあり方が異なる、というより、真逆である。」


 『職業としての政治』と『官僚制』のくだりから抜粋