仲正昌樹「マックス・ウェーバーを読む」その4 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「ウェーバーは、『労働』に従事し、成果を上げることを重視するカルヴァン派の姿勢を、宗教的に動機づけられた『禁欲』として捉えようとする。宗教的な『禁欲』というのは、通常、『清貧』『貞潔』『従順』を特徴とする修道士的生活を指すが、ウェーバーは、カルヴァン派の信徒たちは、神の栄光を増すべく、自らの職業生活を、一定の方法に基づいて徹底的に合理化する努力を続けるという意味で、『禁欲』的であるとみなす。」


「カルヴィニズムが、職業を中心とする世俗の生活全体を、『禁欲』の実践の場とみなしたことである。一日の生活すべてにおいて自分の欲望を律し、神から与えられた使命=職業で成果を挙げられるよう、合理的に行動しなければならない。修道士も一日の生活全体を律するが、それは一般社会で生じる様々な面倒や誘惑から隔離された状態での禁欲である。一般社会で生活しているといろいろな誘惑にあって妥協する可能性も大きいが、本気で禁欲生活を送ろうとするのであれば、世俗のほうがより高い集中力と克己心が必要とされると見ることもできよう。しかも、修道院での生活は小規模な組織によって細かく管理されているが、世俗での職業生活は、先にみたように、基本的に『孤独』である。自分自身で自分の欲望を律しながら、自らの職業生活を設計し、成果を挙げなければならない。より多くの努力と工夫が必要になる。」


「もう一つのポイントは、そうした合理的な禁欲を世俗において実践している信徒たちの間に、『予定説』を前提として『宗教的遺族主義』、別の言い方をすれば、選民意識が培われるという点である。つまり、自ら立てた計画に従って禁欲生活を続け、労働の成果を上げることができるということは、自分が神の栄光を現す道具として選ばれていることの傍証になる。それによって信仰を更に強まる。」


「しかし、そうした『貴族主義』の裏返しとして、自分はひょっとしたら選らばれていないかもしれない、という恐怖感がある。中世のカトリックの修道士の場合、修道院で規律を守って生活していることによって救われる可能性が高まるが、世俗の生活の送っているプロテスタントにとって、救われる者/救われない者を明確に区別できる外的指標はない。そのうえ、これをやりさえすれば確実に救われる、ということはない。そういう緊張感があるからこそ、カルヴィニストたちは、自分たちこそ選ばれた者であると自らに言い聞かせるように、職業生活に励むことになるのである。」


『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』については、終了。原典にあたった時に理解が容易になるかどうか・・・。

予定説を信仰するのは難しい。