小倉紀蔵「韓国は一個の哲学である」その3 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「自らが〈いるべきチャリ(席)〉というのを、どんな韓国人でも強烈に意識している。そして〈いるべきチャリ〉と、今実際に自分が〈いるチャリ〉との距離を、常に縮めようと努力するのが、韓国人の一生である。今自分のいる場所に満足し、あるいは疑問を持たず、その場所を居心地よく清めようとする日本人とは、大いに異なる。韓国人にとって、〈不本意に今いるチャリ〉は、さして強い執着の対象ではない。『あなたは今まで一度も〈ちゃんとしたチャリ〉に座ったことがない』と妻が夫を責める。その言葉に夫は耐えられず、酒を飲んで暴れる。韓国人は、自らいるべき場所にいることができず、距離が生じたときに、騒ぎ、苦しむのだ。本来なら自分はあの〈チャリ〉にいるべきはずなのに、様々な障害によってあの〈チャリ〉にいることができない。あの〈チャリ〉に座りたいという憧れ、そして座れないという苦しみ、それが〈ハン〉なのである。」


「韓国人に〈ハン〉という情があるのは有名だ。漢字では『恨』を宛てている。しかし〈ハン〉という韓国語にもっともよくあてはまる日本語は、『あこがれ』なのである。もちろん〈ハン〉には『恨み』という意味はあるのだが、単なる恨みではなく、そこにはあこがれの裏打ちがあるのである。何に対するあこがれか?〈理〉を体現したいというあこがれである。〈理〉の体現者は〈ニム(主)〉だから、〈ハン〉とは〈ニム〉に上昇したいというあくなきあこがれなのだ。韓国語には、『あこがれ』という意味の固有語がない。『憧憬』という漢字語を使っている。それは、〈ハン〉という語があこがれの意を担っているからである。そして〈ハン〉は上昇への憧れであると同時に、そのあこがれが何らかの障害によって挫折させられたという悲しみ、無念、痛み、わだかまり、つらみの思いでもある。社長ニムになる、博士ニムになるなど、さまざまな〈ニム〉になろうと韓国人は猛烈に奮迅する。しかし、個人の資質や環境のせいで、どうしても上昇できない、〈理〉を体現できず、〈ニム〉になれない、という不幸な事態がしばしば発生する。こんなとき韓国人は『アイゴー』と嘆くことになる。そして韓国人のいう〈ハン〉とは、このことなのである。」


 朱子学の理論と実践といったところか