小倉紀蔵「韓国は一個の哲学である」から | さかえの読書日記

さかえの読書日記

琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「韓国とは道徳志向性国家である。韓国は確かに道徳志向的な国家であるが、これは、韓国人がいつでもすべて道徳的に生きていることを意味するのではない。道徳志向的と道徳的とは異なるのである。道徳志向性は、人々のすべての言動を道徳に還元して評価する。つまりそれは道徳還元主義と表裏一体をなしているのだ。現代の日本は道徳志向性国家でない。これが韓国との決定的な違いである。しかしだからといって、韓国人が道徳的で日本人は不道徳的だ、ということではない。韓国人が『われらこそは道徳的な民族であって、日本人は不道徳な民族である』と主張するのは、韓国人が道徳的だからではなく、道徳志向性だからなのである。翻って日本人は没道徳的・現実主義的傾向が強いので、すべてを道徳に還元しない。しかし日本人が歴史上常に道徳志向的でなかったわけではない。かつては道徳志向的な時代もあったが、今はその志向性は弱まっているのである。いやむしろ、道徳志向性は日本では、古くから存在しこそすれ社会のすみずみまで浸透することはなかったのだ。」


「ふつう、江戸時代の日本は儒教国家であり、明治維新でそれを打倒して西欧近代的な国家体制をつくった、と考えられている。しかしこのような歴史把握は、根本的に誤りだ。江戸時代の日本は儒教国家ではなかった。儒者が政治を担わぬ儒教国家はありえない。ただし明治維新を成し遂げたのは、儒教的変革主義者たちである。日本は完全な儒教国家ではなく、しかも多様な急進的儒教主義者が存在していたことが、明治維新を可能にした。明治維新以降、日本は遅ればせながらようやく儒教的中央集権国家をつくりはじめた。明治の近代日本は、封建体制からの脱皮ではあったが、儒教体制からの脱皮を図ったものではない。むしろ日本全体の儒教国家化を、西欧の理念を摂取して推進したのだ。」


 本書の冒頭部分からの抜粋だが、いったいどこにもっていかれるんだろうか、という感じ。

『入門朱子学と陽明学』と同じ著者のもの。